パーソナルツール
現在の場所: ホーム 科学とニセ科学 ニセ科学についての議論 コメント用
 

コメント用

 試しに、「ニセ科学まとめ」関連のコメント募集ページを置いてみます。多分、誰でもコメント可能だとは思いますが……。掲示板ではないので、適宜編集して本文に反映させたりといったことをする予定です。

 下の「Add comment」をクリックしてみてください。あと、ページ一番上右の連絡フォームに書き込むと管理者にメールが送れます。

moderationのチェックを外したので、投稿即見える状態になるはずです。ただ、コメントの数が増えると、リスト表示とかができない分、管理が大変になりそうなので、もう少しまともなフォーラムを作ることも考えています。どういう形で落ち着くかはもうちょっと待って下さい。

 

あっちで見かけたので来てみました。

Posted by かとう at May 19, 2009 03:29 AM
社会規範より行為規範の方が、しっくり来るような。。

と言っても、なんかあやふやなので、学部の教養の時のテキストを引っ張り出してきました。

現代法学入門 第三版 伊藤正巳・加藤一郎編
第1に、行為規範は、「かくあらねばならない」という当為の法則である。「人を殺してはならない」という規範の例から
も明らかなように、その規範が存在するにもかかわらず、実際にその違反は生じうる。(中略)
当為の法則とは、このようによりよい世界の構図をえがくものであって、現実と一致しない場合があるにもかかわらず妥当
するのである。当為の法則に対して必然の法則があり、自然科学の法則は必然の法則に属する。それは、必ず生ずることを
内容とし、現実と一致することによって妥当性をもつ。「人間はすべて死ななければならない」という法則を例にとってみ
ても、このことは明らかである。法は行為規範として、当為の法則に属することをまず認めねばならない。
第2に、行為規範は人間の行為を規律するものである。
(後略)

写しながら、しっくり来ない理由も考えてたんですが、社会規範の定義がいまいちだからかな。と思いました。
狭義の社会規範が法規範であり、広義の社会規範が道徳(または習慣)規範になるからなのかなと。
後に列挙する規範と入れ替え可能だから、違和感を感じたのかな。

ま、社会規範とはの所で、ここなりの定義をしっかりしなおして書いておけば、問題は無いですけど。
個人的には、s/社会規範/行為規範/な気が。。。

あと、道徳の定義も欲しいですね。
自由に範囲を伸び縮みさせて使われていて、文脈ごとに意味が変わって使われる事が多い言葉ですよね。
#埃を被っていた本には載ってませんです。法学者には自明なのかな。

どうもです

Posted by apj at May 19, 2009 03:42 AM
かとうさん、
 このコメント欄の仕様が、ログインしない限り新しいコメントがあったことが見えない&管理者が投稿する場合でも書き込んでからpublishボタンをクリックしないと公開されない、という、むやみに厳しい状態なので(緩くしたいのだけどどうしたらいいかわからない)、数日ログインしていなかったらコメントがあったことを見落としていました。対応が遅れまして済みません。

 確かに、道徳をどうするかというのは私も困っているところです。教養教育で倫理学は履修したのだけど、記憶はどっか行っちゃってますし、私の手元には、道徳についての基本的な文献は無いのですよねぇ。あまり文脈依存にはしたくないのですが、このあたりの話が発散しないようにするにはどうしたらいいか、倫理学方面の人達のノウハウを知りたいところです。

 道徳と社会規範の記述は、手元の「法学」眞田芳憲著(中央大学通信教育部)に沿って書いています。

規範の部分について

Posted by かとう at May 19, 2009 11:28 AM
個人的には、社会規範をここで再定義して使うか、
もうちょっと明確な行為規範にしてしまった方がいいと
思います。

で、我々は「文系」じゃないのだから、あっさり「道徳」
という言葉は捨ててしまいませんか?
道徳って、結局、善悪に従って、良いことをやって、
悪いことはしないように。って所に戻ってくると思い、
じゃあ、その「善悪」ってどう決めてるのよ?ってのは
道徳の中に無いんですよね。
その基準を外から持ってきている、慣習だったり、宗教
だったり、法だったり、科学だったり、為政者の恣意
だったり。
道徳内部に、善悪の基準を作るメカニズムを内包して
いるのであれば、それを独立においておく事に意味は
ありますが、他律されているものが入る概念だけの箱
の様な気がしてます。

行為規範には、法規範、宗教規範、慣習規範、その他
の規範(その時の為政者、上位者から求められるもの、
思想体系、科学的なもの)等があります。
の方が、すっきりする感じがあります。
#志村ー○○規範!って言われたら、また検討して
#追加していけばいいと思います。

当面は、右上の連絡フォームをプチって運営って事
ですよね。

社会規範は行為規範を補助する面がある

Posted by 技術開発者 at May 20, 2009 10:32 AM
こんにちは、かとうさん。

>道徳って、結局、善悪に従って、良いことをやって、
>悪いことはしないように。って所に戻ってくると思い、
>じゃあ、その「善悪」ってどう決めてるのよ?ってのは
>道徳の中に無いんですよね。

道徳というのは一面で行為規範の周辺部を埋めている面があるのね。変な例を出して見ると「道に落ちていたサイフ」を「自分の物にしてはならない」は行為規範だよね。では、「拾って交番に届ける方が良い」というのは道徳的な規範なのね。では、行為規範にのみ従って、道徳的規範は「守らなくても良い物なのだから誰も守らない」とするとどうなるかと考えてみるのね。そうすると、そのサイフは落とし主とかお巡りさんが拾うまでそこにあることになるのね。その間に沢山に人がそのサイフを目にする。そしてその中には行為規範が守りにくい人もいて、行為規範の違反である「遺失物横領罪」が成立してしまうわけです。守らなくては成らない規範ではなく「した方が良い」という規範であるところの「拾って警察に届けた方が良い」という規範が守られることで、より厳格な規範である「自分の物にしてはならない」を人が犯す事を防いでいたりするわけです。

なんていうかな、私は社会規範の中に「弱い人間同士が互いを間違った方向に向かないように助け合う」という面があるように思うんですよ。それは一面でうっとおしい部分は持っている。でも、そのことをうっとおしいからと捨ててしまうと、自分が間違った方向にいかないようにするための努力を自分一人で負わなきゃならなくなる。それは結構重たい物じゃないかななんて思うんですね。

承認が早くなったから、スクリプトになったかと思ったら

Posted by かとう at May 20, 2009 07:07 PM
まだ人力なんですね。
そんなにあわてなくても良いですよ。

最初に、社会規範に対して持っていた違和感の一つが解ったので、その報告を。
斜め読みしすぎて出展が解んなくなっちゃいましたが、
1. 社会が個人へ要請する規範。(これが、apj氏が一貫して使っている意味。ここのコメントも
この意なので、今の所、参加者内での齟齬は観測されていないため、現状実害は無い。)
2. 社会に対して要請される規範。(例えば、人権なんかはそうですよね。人が生まれながらに
して、自然に持っている権利を侵害しないよう、社会に対して規範を要請した結果が、人権宣言
であり、それを反映した法規範として、憲法で規定される)
の両方で使われていて、それをごっちゃにしながら書いてある物を読んで、あほか。と思った
記憶の残滓が、違和感となってたようです。
個人的には、のどにつかえた骨が取れた気分です。
もう一つは、トートロジーなのでは?という疑義がありますが、みなさんが気にされなければ、
僕の気にしすぎだと思います。
定義して使っていこうになるか、置換しようかは、もちろんapj氏の検討結果ですけど、材料をみんなで出していこうって趣旨だったから、こういう感じで、コメント用は進んでていいんですよね?
趣旨を勘違いしていたら、指摘してください。

道徳自体が難しいので、考えを深めていく為に、反論の為の反論をします。
#科学的な話をする時は、こんな事必要ないからしないんですけどね~。
>では、「拾って交番に届ける方が良い」というのは道徳的な規範なのね。
これを道徳規範と言ってしまうと、何の話をしているのか解らなくなってしまう。
「落とした人はきっと困っています。拾った財布を、落とし主に返す為に、努力しましょう。」
までが道徳規範だと思います。
交番に届けるまで行くと、法規範になります。
もちろん、その部分は道徳規範でもあります。これは、交錯した部分ですよね。
落とし主を全力で探したけれど見つからなかった時、「貰ってしまっていいのか?」という
問いに答える道徳規範が無いと思います。(あるかな。)
現代の我々にとっては、法規範が規定してますので、警察で公示した後に拾い主がもらうわけですが、
その法規範が無かった頃を想像すると、個人でもらっちゃう人と、良心が痛むからと共同体で所有する
人がいる感じになっていくんじゃないかな。
「自分の物にしてはならない」が道徳規範であった、時代・共同体であれば、もちろん共同体に
帰属させる事になるでしょう。それは慣習規範になると思います。

最後の段落の所は、慣習規範(宗教規範でもある。もちろん、道徳規範ともいえる。)なのかな。

各規範を集合として、それらの共有集合が空集合にならないから、分けていこうとすると
結構大変ですね。

自然発生ということも考える

Posted by 技術開発者 at May 21, 2009 08:29 AM
こんにちは、かとうさん。

道徳みたいな倫理学とか社会学的な事を考えるとき、「人が作り出したもの」ということにあまり重きをおくと危険なんですね。確かに人が作り出したものではあるんだけど、誰か賢者が、あるいは権力者が「こう決めよう」としてつくりあげた部分というのは割と少なくて、人という生物の群れが群れで生きる上に自然にできあがってきた規範というのもかなりあるわけです。自然発生という言い方だとおかしくなるかも知れないけど、経験則の積み重なりとその伝承の中でできあがる部分なんです。そいうい意味では慣習規範というのが占める部分が大きいのね。

さらにいうと、規範のもつ強制力として「まわりが皆、こうしているから自分も」なんてのは、もともとの人間の本能とも結びついている部分があるとも思っているわけですね。群れを作る動物は、どれか一個体が危険を感じて逃げると群れ全体が逃げ出すみたいな本能的な部分があります。実のところ、「あいつ、なんで逃げたんだろう」と原因を見極めてから逃げていたんでは、捕食動物に食われちゃうので、こういう行動様式を発達させる方が生き延びやすかったんだろうと思います。もともとに「周りの行動に引きずられる」という本能があり、そして人間が知性を発達させて社会生活を営むとき、その本能的な「多数に従う」を利用して社会生活に必要な幾つかの取り決めを守らせてきた面があるのだろうと思います。

我々のニセ科学批判がなかなかうまく行かないのも、この「多数に従う」という部分があるんですけどね。ニセ科学言説がTVのバラエティーなどを通じて社会に広がり、社会の多くの人が茶飲み話の「面白い話題」として口にのぼらせる様になると、「多数に従う」という本能的な部分が強く働いて、それを「ニセの話だ」と無くしていくことが難しくなる訳です。

だからこそ、社会に蔓延する前の段階で食い止めないとならない訳です。そして、食い止めるためにも「多数に従う」といった本能的な部分を利用しなければならない面があり、それが「嘘を言いふらすのは良くないよ」という規範なんですね。

摂津国人さんの様に、飛ばすってのもありですね。

Posted by かとう at May 27, 2009 11:51 AM
行為規範はどこまで行っても、人が作り出したものですよ。
行為規範を規定する主体がなければ存在し得ないし、その規範を守ることを求められる主体が無ければ存在意義がないです。
その行為規範を無意識的に策定している事が多いですが、無意識であってもやはり規定しているんです。
一人の人間内に、規定する事とそれを守ることが同居している事は多く、それらを意識的にしている事も少ないので、
無意識だと思われやすいですが。
二人以上存在して、Aの行為規範とBの行為規範が衝突するとき、その部分は意識される事になります。
この時、合意形成の手続きをする事で、個人の行為規範だったものが社会規範となり、規定する主体が集団となり
規範を守る主体が個々人や集団となります。
この時、衝突しない行為規範に関しては、そのまま無意識の状態で維持されていきます。
環境が変化する、集団に変化がある等、無意識の行為規範を明示される行為規範に変更する必要も出てくる事も当然あります。
その為、社会規範とその社会集団を切り離す事が出来なくて、環境、歴史、宗教等も考慮に入れないといけなくなります。
アプリオリに社会規範ありとするより、それを横に置いておこうという意見に一理あると件名に書きましたが、結構
マジです。

明確な手続きが必要ない、各個人が無意識に持っている行為規範が各々衝突しないものに関しての中身については、技術開発者
さんの第二パラグラフの考察の通りです。
第三パラグラフの「本能的な部分を利用」ってのは、短期解としてはありですが、やはり理想論としての、人々が合理的に
考えた結果なくなって欲しいというのはあります。後者のやり方だと、何ミレニアム後に実現するのか解りませんが(;;)

社会が保たれてこその文化だからね

Posted by 技術開発者 at May 28, 2009 01:01 PM
こんにちは、かとうさん。

別なところに、「算数の公式」なんて話も書いたんだけどね。「この円の面積を計算する」という仕事がある時に、円の面積の公式の証明も理解していて使うのが最良だけど、証明までは理解出来なくても「公式なんだから当てはめる」で出しても仕事はできる。「証明が理解出来ていないから、当てはめて良いかどうか分からない」とすると仕事にならない、なんてね。

>後者のやり方だと、何ミレニアム後に実現するのか解りませんが(;;)

私は歴史が好きなんでいろいろと考えるんですけどね。我々の知性は、まだまだ発達の途中なんだと思います。かとうさんのおっしゃる理想の姿が現れるためには、もう何段階もの発達を遂げないとならない様に思えます。でもって、知性の発達というのは「社会が安定して保たれて居てこそある」という思いも有るんですね。中国史なんかで動乱の後に強力な王朝ができて安定する。そうすると哲学とか芸術の花が開く。でもやがて王朝が堕落して社会が不安定になると、一旦、哲学や芸術も消え去ったようになる。そして動乱や群雄割拠の時代を乗り越えて、次の王朝の安定期になると、過去の哲学や芸術を再構築しては、その上にさらに何かを積み重ねようとする動きがおきるわけです。なんていうかな、動乱期にも優れた哲学者の卵や芸術家の卵はたぶんいたのだろうと思うんですよ、でも彼らはその才能を花咲かせることは無かった、生きるのに精一杯だからね。中には、無理矢理兵隊にされて「役立たず」と言われながら命を落とした者も居たかも知れませんね。そういう意味では社会が安定していてこその文化なんだと思います。

今のニセ科学の蔓延を「文明の衰退期の特徴」なんて言った人もいます。衰退期には積極性が失われ、合理性が疎んじられ、神秘主義が幅を利かす、なんてね。

社会規範と社会のあり方

Posted by こぴら at May 19, 2009 03:29 AM
社会規範の部分について、コメントします。

ニセ科学を問題にすることの根拠を「社会規範」に求めることには、若干の違和感があります。それは、その「社会規範」の実在性をどう示すのかという難題を抱えることになるからです。「法規範」の部分はなんら問題ありませんが、その外の部分について「規範性」があるのかどうかは、特に個別に検討していくと論争的な部分も多いのではないでしょうか(「嘘をついてもいい場合」について後で触れます)。

また、「社会規範」であること自体が必ずしもその妥当性や整合性を担保するわけではありません。「女はあの山にのぼってはならない」という「慣習」があるから、女性がその山にのぼることはよろしくない、というのは妥当でしょうか。両性の平等を定めた「法規範」との整合性はどうでしょうか。

ニセ科学を問題とすることについては、これらの問題点はクリアできるのだと思います。しかし、「社会規範」を理由にした場合、追加して説明しなければならないことがずいぶんと多くなってしまう。

むしろ、嘘をいわれる側について考えたほうがいいのではないか。

なぜ、人を欺いて財物を交付させてはいけないのか。なぜ、食品表示を偽のものにしてはいけないのか。学歴を詐称して選挙に立候補してなぜいけないのか。

それは、誤った情報は、私たちの理性に基づく適切な判断を誤らせる原因になるからではないでしょうか。政治的にも経済的にも適切な判断を行うためには、入力が正しく、また、処理過程が正しく働く必要があります。処理過程は個々人の責任で維持するしかないのですが、外部からの入力が間違っていたのでは、処理過程をいくら適切に維持しても、おかしな出力が出てしまう。
そのことは、社会全体にとっても害悪であるし、個人にとっても損害である。

単純に言うと、「間違ったことを材料に考えると、結果も間違ってしまう=それは社会にとっても個人にとっても困る」ということです。

最初にあげた例でいえば、詐欺は、間違った情報によって財産処分の判断を間違えさせる例です。食品偽装では、間違った情報によって購入の判断を誤らせます。学歴詐称は、選挙の選択の判断を誤らせることになります。

逆に、「慣習」上認められる嘘というものもあるわけです。例えば、余命を告知するのかどうか、弱っている人に身内の死を知らせるかどうか。これは、誤った情報が伝達される範囲がごく限られているうえ、損害がそもそも発生しない(むしろ嘘をつかないことが損害につながるおそれがある)から認められるのではないか。

小説や手品の「嘘」は、そもそも現実の判断に影響を与えるものではない。

今まで読んできたニセ科学関係のお話から、一応法学系の私が読み取ったのは、そういうことです。思いつきのレベルで、文献の裏打ちがあるわけではありませんが、何かの参考にしていただければ幸いです。

社会にとって悪い結果をもたらすから、ですよね

Posted by apj at May 19, 2009 03:48 AM
こぴらさん、

 kikulog他あちこちでお見かけする技術開発者さんとやりとりしていて、科学でないものが科学だと思われることによって、他人を騙して被害を発生させる(金銭的な被害を始め、危険な目にあったりすることも含む)のがまずいんだよね、という話をしていました。
 もちろん、「嘘をついてはいけない」という規範に則る場合は、慣習としての嘘は最初から除外されます。現実の判断に影響を与えない嘘も除外されます。また、自分を騙してはいけない、みたいな、一種の精神修養の決まり文句のような意味での嘘は、その人個人のものであって社会性を持たないので除外してよいと思います。

 私は、「嘘をついてはいけない」のうち、法規範の中に含まれる部分と、ニセ科学で問題とする部分が事実上ほぼ重なっているということを示す方向で書いています。

>「間違ったことを材料に考えると、結果も間違ってしまう=それは社会にとっても個人にとっても困る」

 この部分の論をもう少し書くことができれば、その方向でまとめた方が見通しが良くなると思います。少し考えてみます。

原則と例外論

Posted by 技術開発者 at May 20, 2009 10:32 AM
こんにちは、こぴらさん。法学系という事なので話が組み立て易いです。

>逆に、「慣習」上認められる嘘というものもあるわけです。

このあたりは「原則」と「例外」という括りで考えた方が良い面ですね。原則は説明を必要とせず、例外に当たる場合に例外にあたる方が例外にあたるという事の説明をしなくてはならないとする部分です。

或る意味で「原則」と「例外」は対等には扱われない訳です。「人の悪口を言いふらしてはならない」が名誉毀損などの原則であり、「公共の利益のため事実を」という場合が例外ですから、例外を主張するものは常に自分が為した批判などが例外にあたるという説明ができるようにしておかなくてならない訳です。

そういう意味では「嘘をついてはならない」が原則であり、或る意味で「なぜ、嘘を付いては成らないか」を詳細に説明する必要性は無いわけです。それに対して個別の「この場合は嘘をついてもやむを得ない」とする者は、自らが例外的存在であるという認識を持ち、「なぜやむを得ないか」をせつめいできるようにして行うべきなんですね。

なんとなく、いろんな議論を読んでいると、この原則と例外の違いが区別されていないように思われる訳です。

道徳規範の「原則」とは何だろう

Posted by こぴら at May 24, 2009 09:12 PM
こんにちは、apjさん、技術開発者さん
反応が遅く申し訳ありません。

まず、apjさん、お返事ありがとうございました。
趣旨が伝わったようで、安堵しています。
という以上に重ねて申し上げることもないので、こちらのコメント欄で失礼します。

技術開発者さん、お返事ありがとうございました。
2点ほど気がついた点と、どうだろうと思う点があります。

第一に、法規範のレベルでは、「嘘をついてはならない」は日本国憲法第21条の「原則」に対する「例外」を構成することになります(特に国家が「嘘をついてはならない」と命ずる場合)。従って、虚偽説明などを禁ずる法律には、それぞれ「表現の自由」を制約するに足る説明が必要です。これが気がついた点です。

第二点は、どうだろうと思う点です。どうだろう、というのは、私自身、確証が持てないからです。
それは、この場合において、そもそも「原則」と「例外」という立て方が妥当なのかどうかということです。

実定法でも往々にして「原則」と「例外」は法技術的に決められることがあります。「Aをしてはならない。ただし、7月から12月はこの限りでない。」とするか、「1月から6月まではAをしてはならない。」とするかというようなことです。

「嘘をついてはならない。ただし、これこれの場合を除く」なのか、「これこれの場合には嘘をついてはならない」なのか、もしかしたら、技術開発者さんと「この原則と例外の違いが区別されていないように思われる」人の違いは、同じ規範内容に対して、どのように理解するかの違いにあるのかもしれません。

そして、この場合、どちらが「原則」なのか、ということはどのように確かめたらよいのでしょう。明文の法規範と違い、客観的な根拠を提示するにはたいへんに手間がかかりそうです。

私が最初に
>その「社会規範」の実在性をどう示すのかという難題を抱えることになる
>「社会規範」を理由にした場合、追加して説明しなければならないことがずいぶんと多くなってしまう
と申し上げたの意味は、例えば、以上のようなことでした。

この場合は原則内と考えます

Posted by 技術開発者 at May 25, 2009 09:14 AM
こんにちは、こぴらさん。

>第一に、法規範のレベルでは、「嘘をついてはならない」は日本国憲法第21条の「原則」に対する「例外」を構成することになります(特に国家が「嘘をついてはならない」と命ずる場合)。従って、虚偽説明などを禁ずる法律には、それぞれ「表現の自由」を制約するに足る説明が必要です。これが気がついた点です。

この場合は、原則に対する例外として存在するのではなく、原則に包含される制約と考えるべきでしょう。私は良く「思想の自由」と「表現の自由」の違いについて声明してきましたが、思想の自由そのものは他者の権利との関係を持たない権利であるのに対して、表現の自由は他者の権利との関係を持つ権利ですらね。「表現」とは行為であり、その行為は他者の思想や感情に対して影響を与えることを前提として含んでいる行為である訳です。つまり、他者の自由な思想に対して影響を与える行為であるために、必然的に他者の思想の自由に対して一定の配慮を求められる訳です。

このあたり、民法の第1条における「私権は公共の福祉に従う」原則と「信義誠実原則」と関係する訳ですが、表現の自由という権利は、前提として他者に影響を与えるという前提を含んでいるために、「権利の行使にあたって信義を持つ」事が求められる訳です。この場合の「信義」とは「善良管理義務」「善良注意義務」を含みます。すなわち、自らの表現内容により影響を与える可能性のある他者の思想に対して、「悪いことが起こらないようにする」という義務を負いそして、その義務に対して「誠実」でなくてはならない訳です。この義務がないがしろにされるとき、それが「権利の濫用」とされる訳です。

具体的には「名誉毀損」「侮辱」「信用毀損」あるいは「脅迫」などが刑法には挙げられている訳ですが、これらは、表現の自由という原則に対する例外というよりも、表現の自由がもともとに内包する「他者に影響を与える」という前提から派生している「他者の権利に配慮する義務」から派生していると考えるべきだと思います。

ありがとうございます

Posted by こぴら at May 31, 2009 08:11 PM
技術開発者さん、たびたびのお答えありがとうございます。

よく考えてみましたところ、前回、私は私の考えの本筋とはかなり遠いところでコメントしてしまったようです。お手数をおかけしてすみません。

「表現の自由」という憲法上の原則と、「嘘をついてはいけない」ということがなぜ両立するか、ということについて説明いただいたと考えています。
これ以上コメントして本筋を離れてもいけませんが、どうしても気になるので二点コメントします。
一点は「考え方が私と違う」ということ、もう一点は「私の視野が狭かったです」ということです。

「表現の自由」が「思想の自由」によって制約されるというのは、あまり聞いたことのない学説です。個人が自由であるという近代的な考え方からは導出されない理論であり、むしろポストモダン的な考え方と言ってよいでしょう。すなわち、個人の思想空間は個人の内部に閉ざされるものではなく、外部言論によって「強く」制約される、あるいは個人の思想空間というもの自体が幻想であり、個人の思想と思われているものは外部の言論の反映に過ぎない、という考え方です。

近代的に考える限り、外部言論に虚偽が混じっていたとしても、それはいずれ個人の理性により排除されうるものだと考えます。この場合、表現の自由により、種々雑多な言論が飛び交い、そこに個人の理性が働くことによって真実が見出されていくというプロセスをとります。「思想の自由」を理由として「表現の自由」を制約するということは、真実を見出すプロセスを国家が制約することを許容することに他なりません。

技術開発者さんの今回のご意見は、外部言論の影響力を大きく評価しているだけではなく、「思想の自由」による「表現の自由」の制限をこの権利における内在的制約として説明している点で、国家による言論規制を幅広く許容する内容になっています。そのような立場もありうるのかもしれませんが、情報の自由流通によって思想の自由を確保すべきだという私の考えと相容れるものではありません。

ここまでが第一点です。第二点は、技術開発者さんのコメントの第3パラグラフに関することです。

下でかとうさんに御指摘いただいたとおり、私の議論では民事上の問題が抜けています。
この点については、確かに「信義誠実の原則」などにより、「嘘をつくべからず」ということが原則になっていると見るべきだと思います。

ここで最初の問題に立ち戻って考えると、技術開発者さんが最初の方で説明してくださったことは、私人間の問題を主に念頭に置いておられるのではないかと思います。
ある私人にとって、他の私人に対する関係においては、その他者にできるだけ害悪が及ばないように配慮する必要がある。そのことについては、まったく異論はありません。
第一点についてのコメントは、ですから、国家が法律によって表現の自由を制約する場合に関するものだと考えていただけるとありがたいです。

御指摘ありがとうございました。

「必要悪」としての限定ですから

Posted by 技術開発者 at Jun 02, 2009 09:03 AM
こんにちは、こぴらさん。

>技術開発者さんの今回のご意見は、外部言論の影響力を大きく評価しているだけではなく、「思想の自由」による「表現の自由」の制限をこの権利における内在的制約として説明している点で、国家による言論規制を幅広く許容する内容になっています。

考え方としては、まず個人間の「権利の尊重」があるわけです。2人の人間がいて、一方が自分の権利を行使することで、もう一方の権利が損なわれたら、その権利を行使した人は「権利を尊重しているのか」という事を考えなくてはならない訳です。そういう意味では、個々の人間が真の意味での「権利の尊重」を行う、つまり権利間のバランスを自動的にとるなら、法も政府も必要ないわけですね。

ところが、人間というのはどうしても「自分には甘く、人には厳しい」所が出ます。自分の権利の行使が他人の権利の侵害に当たると言うことを認めなかったりするわけですよ。そこで、法がや政府という者が必要になるだけです。本来、自律的にバランスをとる部分を他律化している訳ですから、そこには「悪」があります。

法や行政権力というのは基本的に「悪」ですから、「必要悪」の範囲に留めなくてはなりません。では、どの範囲が必要悪かと考えるときに、上で述べた「真の権利意識の持ち主が権利間のバランスを自動的にとる」結果と同じレベルの結果が起きるのが必要悪の範囲と考えています。

ゆっくり考えればいいので、反応が早い必要はないとおもいます。

Posted by かとう at May 28, 2009 04:51 PM
憲法21条を出してらっしゃいますが、ここにある表現の自由を原則と、嘘を云った場合はその例外と捉えるのはまずいです。
そもそも、表現の自由は国家が主権者の国民に対して、表現に制限を加えない為の規定であるからです。

>むしろ、嘘をいわれる側について考えたほうがいいのではないか。
ここをスタートにして、憲法を持ち出すのであれば、29条、(あとは13条かなあ。。)を元にして議論を組み立てた方がいい
と思います。
「嘘をついてはいけない」と国が命じているのではなく、嘘をつくことで他の人の権利を奪う事を禁じている。という方向性です。

ありがとうございます

Posted by こぴら at May 31, 2009 08:18 PM
かとうさん、ありがとうございます。

私が憲法21条を引き合いに出したのは、「原則」と「例外」論の関係で、「嘘をついてはいけない」ということが必ずしも原則であるわけではなく、例えば国家が法律で「嘘をついてはいけない」ということを規定する場合には「表現の自由」に対して「例外」となるのではないか、と考えたためです。

私人間で「嘘をついてはいけない」ということが、必ずしも「表現の自由」の例外となるというわけではありません。

一応、この前のコメントを書いたときにもそんなことを漠然と考えていたのですが、表現がよろしくなかったようです。御指摘いただいたことで、説明の機会を得ました。ありがとうございます。

こんな理解も有りでしょうか

Posted by 摂津国人 at May 26, 2009 10:37 PM
 お邪魔します。
こぴらさんの
>むしろ、嘘をいわれる側について考えたほうがいいのではないか。
 
 という考え方は面白いと感じ、そこから考えてみました。

◎嘘をつかれる側(言葉以外の嘘を含めて「嘘をつかれる」とします)にしてみれば自分を護るために「嘘を見破る(嘘を嘘であると認識する)」という対策がとられるのも合理的で「嘘が存在する以上、嘘を嘘であると認識する事はある」と言っても間違いではないと思います。

 例外として小さな嘘や無害と思われる嘘は認識するコストのほうが高いと無視される事も有り、都合の良い嘘は受け入れられる事も有りえるでしょう。

 しかし嘘が無駄なコストを支払わせたり選択を誤らせたり危険を増やしたりするリスクも有る以上、認識された嘘についての情報を利害が重なる他人や集団と共有する事は個人の利益にもなります。
 自分の属する集団に嘘が広まれば自分自身も間接的にでも危険に晒されたり不利益につながる事もあります。当事者とも言えます。

 それが自覚的につかれた嘘か単なる間違いかはともかく、問題が有ると感じた嘘を嘘であると(他人にも伝わる形で)指摘する行為は(特に言論の自由を認められた社会では)嘘をつかれる存在の集団生活における行動としては合理性が有ると考えられます。

 「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」のでいわゆる”「ニセ科学」批判”というのはその中の一部で科学に知識や関心、利害があり科学周辺の科学を利用した嘘を嘘として認識できる人たちの合理的な行為だと言えるでしょう。

〔以下補足〕
 ※これは「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」という”批判者”の「指摘する」行為についてのみ述べた物で「指摘の内容や方法が適正なのか」「嘘をつく側の嘘をつく理由」「嘘をつかれる側が騙されるか騙されないか、嘘だとの指摘を受け入れるか受け入れないか」は別の話だと言う立場です。
(”批判”批判者が「指摘の内容や方法(動機や態度も含む)」を「指摘する行為」の正当性と絡める批判をすれば筋違いと言えます)

 ※いうまでも無く「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」自体は指摘内容や方法の正しさを保証するものではなく指摘自体の嘘を指摘する行為も有ります。嘘だと指摘された側が反論・黙殺する行為を否定する物では有りません。「嘘をつかれる側」が同時に「嘘をつく側」でも有る事には矛盾は無いはずです。

 ※「嘘が有る以上嘘を嘘だと指摘する行為」は表面化するような大きな物や単純な物だけでは無く、問題の深刻さが量れない嘘も多くその嘘から受けるリスクや支払うコストもそれぞれ違う以上「問題が有ると感じた嘘」と考えた(又は判った)個人の判断(経験や思想信条も含む)に基づく主体性と、基本的には指摘者自身の責任で行われるしかないでしょう。実害が有るとされる場合はそれを根拠に出来ます。

 ※指摘の手段は嘘をつく側の姿勢や実害の程度によって、口頭での注意から批判、非難、法的手段まで段階は有るでしょう、それは「指摘の内容や方法が適正なのか」に入ります。

 ※創作物や手品は「嘘であると認識されている(はずの)嘘」です、認識されていない場合は嘘だと指摘しても問題ないでしょう。

 ※「嘘を嘘だと指摘する行為」はapjさんのおっしゃる「レッテル剥がし」に近い意味だと考えています。

 ※apjさんをはじめ皆様の考えとも基本的に違いは無いと思いますが、大量の説明が必要になる場合も有る規範も法も善悪も「抜き」(否定では無く)で理解してみました。  

世代を超えて影響することもあるからね

Posted by 技術開発者 at May 28, 2009 06:13 PM
こんにちは、摂津国人さん。

>自分の属する集団に嘘が広まれば自分自身も間接的にでも危険に晒されたり不利益につながる事もあります。当事者とも言えます。

ここにもう一つ「世代を超えた影響」なんて部分も入れて見て欲しいのね。例えば「ひのえうま伝説」とかね。江戸時代にできた迷信らしいんだけどね(一説には八百屋お七がひのえうまだったからとも言われています)。

昭和に入っても、その年の出生率は明らかに低いし、中絶を巡る裁判例もある。

言い出した奴は「面白がらせる」つもりだったかも知れないし、この300年の間に言い継いだ人が、どういうつもりだったかも分からないけど、「子供は欲しいけど、今年生むのはやめとこう」とした人の先祖に必ず一人や二人は言い継いだ人がいるんじゃないかなと思います。

入れられる物なら入れたいですが・・・

Posted by 摂津国人 at May 28, 2009 11:23 PM
技術開発者さん、こんばんは
>ここにもう一つ「世代を超えた影響」なんて部分も入れて見て欲しいのね。

 私も全くそう思うのですが、今回の「屁理屈」は基本的に個人の有る意味「エゴ」の部分で組み立てたわけです。
 本文のほうにはそれを入れると、生物学的な子孫や遺伝子の「エゴ」での説明をする以外には浮かばないので、自分の子供や親類や感情移入できる者のいない人に対しては結局「規範」「道徳」を提示せざるを得なくなります。
 その部分はどうしても補足の「個人の判断(経験や思想信条も含む)に基づく主体性と」に入れるしかないと考えます。

 基本的には「利害が重なる他人や集団」に薄く含まれているつもりもあります。
 ・・・そこに「共感を持つ他人」を入れる程度は有りでしょうか。

 「世代を超えた影響」を厳密に考えると科学や技術、社会構造の進歩についての話までに説明が必要なので手に余ります。
 十字軍やナチスの行為をイエスや使徒に責任を求める訳には行かないでしょう。
 「ひのえうま」も本気(個人の実体験)だったのかもわからないです。
 
 とりあえず「当たり前」の事をポストモダンの人相手にも通じるように書くのは難しいです。

もともと文化とは不自然なものだから

Posted by 技術開発者 at May 29, 2009 09:24 AM
こんにちは、摂津国人さん。

>とりあえず「当たり前」の事をポストモダンの人相手にも通じるように書くのは難しいです。

どう書いても、通じない人にはつうじませんからね。なんていうか、「今の文明は自然じゃない」って言うけど、もともと文化・文明なんてのは自然に反発して生まれるものだからね。自然なら得られる食料が多ければ殖え、少なく成れば飢えて減るのが自然の定めの中で、食い物の種類を増やし、貯蔵や分配を行い、栽培や牧畜をしてさらに増やしして、その自然の摂理から反しようとしてきたから、人類はあるんです。

そして、貯蔵や分配ということを行おうとすれば、人間の中にある「食いたいだけ食って腹を満たす」「奪ってでも腹を満たす」といった自然な欲求をセーブしないと成らないのですよ。そこに規範というのが生まれる訳です。そのことにより、長い冬を持つ地方にも人類は進出できた訳です。

でもね、それは遺伝子が変わったのでは無いわけですよ。限られた大脳を使って言語というコミニケーションを発達させ、そのことにより「個は同じでも文化を持つ群れとなることで強くなる」を達成し、それを伝承したから「生き延び、拡大した」訳です。

なんていうか、社会規範とかを考えるときに、「群れ全体の生き延びやすさ」から考えるしかない面があると思っています。「群れの中の殺し合いが容認される群れと、戒められる群れはどちらが群れとして生き延びる力が強いか」「群れの中で奪いあうのが当然の群れと、それが戒められる群れはどちらか群れとして生き延びる力が強いか」「群れの中で騙し合うのが当然の群れと、それが戒められる群れはどちらが群れとして生き延びる力が強いか」という問いかけです。なんとなく、既にそういう問いかけをする力を失ってきているのではないかという気がするんです。あらゆる事に、「個」しか思うことが無い感じですかね。

その通りでも有るのですが・・・

Posted by 摂津国人 at May 31, 2009 01:25 AM
技術開発者さん、こんばんは。
 下らない私見にわざわざ反応いただきありがとうございます。

>「群れ全体の生き延びやすさ」から考えるしかない面があると思っています。

 私も基本的にはそんな考え方で良いと思っています。

 ただこの場合でも社会規範を考えると「群れ」をどう捉えるかが問題になってしまう可能性が有ります。
 例えば個人を中心に「家族」か「地域」「部族」「職業集団」「思想・文化集団」「国」「人類」のどのレベルを「群れ全体」と呼ぶのかで未だに揉め事もあります。利害が対立する事も有る訳です。
 
 それと「群れ全体の生き延びやすさ」が規範の起源であるとしても近代はそれをより合理化する事で進んできたはずです。
 いわゆる「ムラ社会のルール」や「子供らの間引き(その近代版の優生学)」「差別」等を否定するためには「自由」「人権」との関係まで触れていかざるを得なくなるので私の能力では手に負えません。

 とりえず「社会規範」はそれだけで定義を決めるのも大仕事なので棚上げしておいて(それはそれで議論すべきだともお思いますが)考えるのも効率的ではないかと試してみました。
 (私の「屁理屈」は社会規範や法や道徳も「外付け」できるはずです)

 ”「ニセ科学」批判”に「社会規範」を含めてしまうことによって、(下手をすれば他の「批判者」の)規範について問われ「批判者」の規範が批判の正当性と、より絡めて語られる事は避けられないと思うのですが。

>どう書いても、通じない人にはつうじませんからね。

 それを言ってしまえば元々「間違いをただしたり、困っている人を助けたりするのは人として当然」で済んでしまいます。
 私は同意出来ますが、それだと個人の決意表明でしかないと思われてしまいませんでしょうか。

 もう一つ。私としては「自然・不自然」でなく「合理・不合理」で述べているつもりです(自然は手に負えません)。

社会規範って難しいよね。

Posted by かとう at Jun 06, 2009 11:39 PM
>ただこの場合でも社会規範を考えると「群れ」をどう捉えるかが問題になってしまう可能性が有ります。
「群れ」にしなくても、「社会」のままでいいです。
「社会」って、いろいろ定義があります。
家族だって社会といえるし、「村社会」って普通に新聞に載ってますよね。
会社単位の「社会」を規定できるし、その中での「社会規範」は存在しますし。
日本国を規定しているとしても、「何時」ってのも規定しないといけないですし。
歴史好きな技術開発者さんは、よく知ってらっしゃると思いますが、社会規範が大きく変わるような転換するポイントは
時間軸にも多数存在します。
例えば、バブル時期には、「消費は美徳」と言われ、大量生産大量消費が礼賛され、そういう方向で規範が形成されて言ったわけです。
その20年前にオイルショックがあったのにも関わらずです。その20年後、環境問題がクローズアップされ、買い物袋さえ無駄使い
してはいけないという、「消費は悪徳」という方向で規範が形成されてきています。
規定する集団と、その基準の時間を固定しないと、変化してしまう、やっかいなものです。

人類の過去から現在まで、その時代の各集団の規範を全て仔細に調べ、その結果不変部分があるかもしれませんが、(人を殺してはいけないが不変部分じゃないのは、戦争時の軍隊内という部分社会が歴史上多数存在していた事で証明済みです。非常に悲しい事実です。)社会学をやりたい訳じゃないので、そんなの、もうやってられないですよね。
最初に書き込んだ時は、社会規範全部を使いたいわけじゃないから、限定的にって方向へ行くつもりではじめましたが、摂津国人さん
のコメントを読んで、やっぱりあっさり「社会規範」は使わない方が筋といいと思いなおしました。
社会規範も道徳も無しで、すっきりして解りやすいです。

内心の自由との切り分けが少し危うい気がします

Posted by apj at Jun 09, 2009 08:22 PM
摂津国人さん、

 仰りたいことはわかるのですけど……。もし、
 「騙されるリスクは自分としては折り込み済みだし、人には愚行を行う権利もあるのだから、私がニセ科学を信じることは私の自由だ。なぜそれを他人からとやかく言われなければならないのか」と反論された場合に、何と言って説得するのでしょうか。
 ニセ科学の方を信じる行為がその人個人の内心にのみ止まるのであれば、それは自由ですし、他人からはそもそもわからないから、批判も非難もしようがないわけです。批判や非難の対象になるのは、その人が、内心で信じるのみに止まらず、例えばblogに書くなどして、本人以外の人にニセ科学を伝える行為を行った場合に限られることになります。
 すると、故意過失はともかく、必然的に「伝えた行為」の方を問題にしていることになります。つまり、内心でニセ科学を信じるのは自由だが(ニセ科学に限らず何を信じようがそもそも自由、というか他人の手出しは不可能)、他の人に伝える行為は批判・非難の対象になる、といったことになります。実際には、伝える行為しか問題にできないのに、規範の部分をはしょってうまくいくのか、というのが疑問なんです。きちんと問題にしようと思ったら、社会規範の説明をイチからやるのと同程度の手間がかかると思うのですけど。

 嘘を嘘だと指摘するだけのことなら、これまでさんざんやってきたんです。で、それだけでは足りないのではないか、というのが、私の問題意識です。

表面化し(伝わら)ない嘘は勿論指摘もできません、指摘のインパクトの強さは嘘の強さに比例するはずです

Posted by 摂津国人 at Jun 12, 2009 12:20 AM
apjさん、意図されている事は共感します。

 「社会規範」がそれぞれの価値観の合意によって成り立つとすれば、「社会規範」は証明できる物と言うより社会に問いかけ確認する物になるはずです。実際には「嘘言論」であっても現在はそれなりに受け入れられている物も有るように感じます。
 例えどう見ても嘘であったとしても「言論」に「社会規範」を持ち込むと「イデオロギー(又は「政治」)」に踏み込むリスクは有ると思います。私は事実以外にまで議論を拡げる事が良いとは思えません(例えば宗教を想定)。
 規範に基づき「言論」を非難する事は、発話者が嘘であると認めない限り規範が価値観(内心の自由)に踏み込むと言えないでしょうか。

 「規範」は関係と文脈に基づく物だと考えます。詐欺や差別などの実害が見える物以外の場合(社会の合意が得られない事もある)には寧ろ適用のハードルは高くなると思いますがどうでしょう。下手をすると空回りしないでしょうか?。

>何と言って説得するのでしょうか。
>伝える行為しか問題にできないのに、規範の部分をはしょってうまくいくのか、というのが疑問なんです。
>それだけでは足りないのではないか、というのが、私の問題意識です。

 可能だとすれば「科学界?」が有る程度揃って「これは嘘だ」と積極的に発言する位しか考え付きません。
 起きた実害についてはもっと広報を出来た方が良いでしょうね。

 個人や特定の集団が「非難」をしても効果は限定的でしょうし、法律に違反しない言論を公的に非難するのは考え難いです。    
「馬鹿につける薬」は無いはずです。一人を説得するために社会全体を説得するのは、より困難だと思います。

 出来れば大きく取り上げられ、社会問題として理解されたい所ですが、指しあたっては地道な批判(非難)が最良だと考えます。
(個人的には教養・啓蒙主義の復権とか言いたいですが……)

(下で書かれていた)>科学以外のことまで正当化するな、といった反論が出てきたんですよ

 これは上でも「嘘」と一般化した様に、気がついた嘘を指摘する権利は誰でもありますからその「反論」は無意味でしょう。「権威」を感じるのはその方の弱さでしかないと思います。批判も反論も属人のみで議論をするのは駄目でしょう、反論と言うより唯の印象操作です。

しつこいですが思いついたので補足に追加

Posted by 摂津国人 at May 31, 2009 01:22 AM
 ※信用に価値が有るとされる集団や関係においては「嘘をついた」と指摘されることが信用を減ずるというペナルティを科されたといえる場合も有ります。指摘は批判や非難でも有ります。

 ※指摘が個人又は集団に受け入れられるかどうかは指摘者の信用、内容の正否、指摘の方法と最終的には受け手側の規範に対する認識や利害、理解力等の複合した要因で決まるはずです。
(指摘者が規範に基づいて指摘を行うのは信用・正否・方法を証明するためにも重要で、受け入れられる為には大切な条件でしょう)

「嘘」はよくない

Posted by こぴら at May 31, 2009 08:45 PM
いろいろなコメントをいただいて、よく考えてみました。
お返ししていないコメントもありますが、たいへん感謝しております。

いまのところ、かなり単純なところに考えが戻っています。
それは、「嘘はよくない」、だから「ニセ科学が広まるのは問題」なんじゃないか、ということです。
「嘘はよくない」の内容は、最初のコメントで書いたとおり「間違ったことを材料に考えると、結果も間違ってしまう=それは社会にとっても個人にとっても困る」ということです。摂津国人さんが展開しておられる議論は、この内容に関することだと勝手に位置づけています(すみません)。

それで、
(1)「嘘はよくない」から、嘘が広まらないように対抗言論を広める必要がある。
(2)対抗言論では食い止められないような損害が生じる場合には、何らかの法規制を行う必要がある=現にいくつかの規制が存在する。
という整理です。

その説明のほうが「嘘をついてはならない」ということよりよいと思うのは、次のような理由です。

(1)「嘘をついてはならない」は嘘をついた者に対する非難を含意するが、「嘘はよくない」であれば嘘そのものを問題とすることができる。したがって、嘘をついた者の故意、過失などを問う必要もないし、個人批判ではなく「嘘」そのものの批判に集中できる。
(2)ある者に対する非難を含意しないということは、あえて「規範」として構成する必要がないということである。「規範」として成立しているかどうか、射程はどうか等の議論を招くおそれもない。
(3)法規範とそれ以外の規範の部分の整理がうまくできる。

「嘘をいわれる側」について考えるということは、つまり、こういうことだったのかなあ、といまさら自分で考えています。

人間論というか不完全人間観

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 12:55 PM
こんにちは、こぴらさん。

>(1)「嘘をついてはならない」は嘘をついた者に対する非難を含意するが、「嘘はよくない」であれば嘘そのものを問題とすることができる。したがって、嘘をついた者の故意、過失などを問う必要もないし、個人批判ではなく「嘘」そのものの批判に集中できる

なんとなく、昔、「速度違反取り締まり罪悪論」というのを人と議論していた事を思い出すんですね。その議論というのは、「速度を制限するのは事故を防ぐためである」という前提にたって、そこに「事故は誰しも嫌だ」という前提を入れるのね。それなら、運転者が皆事故になる危険性をきちんと認識するなら、速度制限なんてしなくても、速度は抑えられるはずだよね。だから大事なの事故に成りやすいという認識の啓蒙がなにより大事で、速度違反の取り締まりなんてするべきでは無いわけです。むしろ速度違反の取り締まりなんてやるものだから、「反則金取られるからマズイ」なんて意識が先にたって、事故の危険性の認識に至らない人も出てくる。だから、速度違反の取り締まりは罪悪であるなんてね。

なんていうかな、人間が完璧な理性をいつも保持しているなら、道徳とか法といった規範なんてたぶん必要ないんだろうなと思っています。でも人間は完璧じゃない訳ですよ。狭い道でも通り慣れてくると、ついつい速度が上がったりとかね。でもって、事故の危険性に思い至って引き締め直せる時もあれば、そうならない時もある。そんなときに、取り締まりに有って嫌な思いをする。そうすると、その道を次に通るときに「この前、ここで捕まったな、速度は、うん大丈夫だ」なんてね。反則金という嫌な思いから事故の危険性に認識が行く人もいればいかない人もいるけど、実際のところ、取り締まりを時々すると、その道の速度は下がったりもするのね。

なんていうかな、人間が完全に理性的なら、もともと「いい加減なことを言ってしまう」なんて起こりようが無いのね。でも人間は時々「いい加減なこと」をいってしまったりもする。その時にね「お前、それは悪いことだぞ」みたいな事を人が言ってくれて、「ああ、悪かったんだ」と思い、そして人も「まあ人間だからやってしまうんだよ」と許し合うみたいな部分って必要なんじゃないかなと思うのね。なんて言うかな、「悪い」があり「でも人間はやってしまうことだから」と許されるという世界と、「それは悪いことでは無い」というのとはやはり違うと思うのね。なんていうか「過失を問わない」というのは、「それは悪いことではない」になってしまう訳ね。「悪いことなんだけど、人間が誰しもやってしまうことだから許す」というためには、「悪い」はなくては成らないわけです。

私なんかが思い浮かべる規範ってのは、「許されない」という規範ではないのね。「お前、注意が足りなかったぞ」という非難は基本的にある。でも素直に「そうだったね、気を付けるよ」に対して「人間だからやってしまうこともあるよね。お互い様だから許すよ」がある世界ね。これは、非難が無いという世界とは違うんですよね。非難が無ければ「許す」という寛容さももともと必要が無いわけだからね。

品質問題について

Posted by かとう at May 19, 2009 11:28 AM
コンピュータのハードウェアエンジニアをしていますが、
品質管理部門にも2年程いました。
ここの項で、物言いが何点かあります。

>例えば、きちんと火をつけられるマッチと、ろくに
>火がつかない粗悪品のマッチが両方市場に出回って
>いたら、まともな製品を作っている企業は、粗悪品
>が出回っていることに対して何らかの対策をとるだ
>ろう。最後まで使えるエンピツと、使っていると芯
>が折れやすくて大部分が無駄になるエンピツの両方
>が市場に出回っていたら、いい製品を作っている側
>が、消費者に対して注意喚起をしたりするだろう。

これは、一企業としては不可能です。
だからこそ、国民生活センタの役割は重要で、何でも
かんでも減らすと言った首相が減らそうとした時に
批判されていたんです。
結局残って、さらに消費者庁を作ると言う事で、
一安心しています。

一企業に関しての品質管理の範囲とは、自社の製品のみ
までしか含まれません。

閑話:
品質管理は、大きく分けて二種類あります。
設計品質と製造品質です。
設計品質とは、その設計で正しく仕様通りの動作を
する製品になるのか?その設計を、実際に製造する
事が出来るのか?等の管理になります。
製造品質と言うのは、工場のラインの出口で、一個一個
の個別の製品が、設計通りに作られているかの管理です。
閑話休題:

で、現状日本では、他社との比較広告さえ批判されて
いますが、他社製品の品質に対して何か言っても、
相手からそれはネガティブキャンペーンだと言われて
しまうため、自由競争前提ではあるが、日本の様な倫理
観の元では、一当事者が、別の当事者に対する粗悪品の
指摘が、出来ない風土になっています。
その為、日本では第三者機関が必要なのです。
なので、上で引用したバラグラフは、削除が妥当
だと思います。

次のパラグラフの業界団体内の自主規格を設定し、
その自主規格に適合したものに対して、ロゴマーク
を附けることをしている様な場合には、業界団体と
して、「君の所は粗悪品を出しているので、改善
しなければ、ロゴマークを取り消す。」レベルの
改善指導は出来ますが、それが限界です。

JIS等の法規制のある規格に適合しない粗悪品の
場合は、国からの指導になります。

>粗悪品が出回ってて放置しておくと業界の信用が落
>ちそうだから何とかしましょう、という話は、科学
>以外では昔からあったものであり、別に珍しくも何
>ともない。
製品(とその品質)が社会に与える影響が大きいものは
(産業省主導かもしれないけど)業界団体を作り、
あるいはパイ自体が小さいので、護送船団的な団体
を作り、それらの団体中で指摘しあいながらやってい
た構造を持つ業界は、昔からもあったけど、どっちか
と言うとそんな多数は無くて、健全な自由競争をして
いる業界は、企業倫理から他所へは口を出せないし、
相手が粗悪品でこけてくれれば自社の利益になるから
放置して様子を見るという、自己利益になってしまい
ます。
#個人的に、何でもかんでも規制緩和の人が嫌いだった、
#のは、こういうのも理由にある。

そういった訳で、冒頭の、供給側(=科学者)という企業
とのアナロジーは、企業の人には逆にピンと来ないです。
どっちかと言うと、お互いに批判しあって、それを健全
だと思う科学者の方が、少数派かな。(修士で卒業しちゃ
った自分には、うらやましい。。。)

任意規格の面を持っているので

Posted by 技術開発者 at May 19, 2009 07:07 PM
こんにちは、かとうさん。一応、JISの関係者なので・・・

>JIS等の法規制のある規格に適合しない粗悪品の
>場合は、国からの指導になります。

正確に言うと、JISに適合していないのに「適合している」と表示した場合が指導あるいは罰則の対象となります。単に火がつかないマッチや芯が折れるエンピツを販売するだけで、その製品にJISマークも何も付けていない状態だと、誰も指導したりしません。

考え方としては、その昔、こういう不良品が大量に市場に有った頃に、抜き取り検査法とかの規格まで整備して、工場認定方式で、その規格を守って製造された製品にJISマークの表示を許した制度なのです。そして、小学校の家庭科の時間などに、JISマークの意味を説明して「君たちもお使いでマッチを買いにいったり、エンピツを買うときにはマークを確認して買うようにしなさい」なんて教育したわけです(私なんかは小学校でそう教わった訳ですよ:笑)。現代ではそういう教育を行うことも無くなりましたけどね。

前にジェットコースターの事故の時に「検査法がJISにある」事が話題となり、強制力が無いことなどがマスコミに叩かれたのですが、もともとJISというのは、適合者が「うちは適合している」ときちんと表示することで差別化が図られることを目的としたものであった訳です。つまりジェットコースターの検査にしてもJISに従って検査している遊園地が「うちのジェットコースターはJISに従って検査している」と宣伝し、遊園地のお客が「そう表示していない遊園地ではなく表示している遊園地で乗り物に乗ろう」とすることで強制力が発生することが期待される訳ですが、きちんとJISに従った検査をしている遊園地も表示せず、お客も「そのような事は気にしない」となればJISと言う制度はあまり意味のないものに成るわけです。

フォローありがとうございます。

Posted by かとう at May 19, 2009 08:16 PM
ロゴマークの話の続きで書いたので、頭の中にはJISマークを附けるって前提はあったんですが、書いてないですね。m(__)m

例えば、HACCPの認定があった工場で、食中毒を出した牛乳屋さんもあったりと、規格って一般の人がイメージほどアテになるのか?って問われると、悩んじゃいます。
欠陥に対しては、PL法で身を守ってください。って結論もやだけど。
一時期流行った?ISO9001も、製品の品質を守る為のものじゃなく、製品品質を守る仕組みがあるかどうかの規格だし。

結局のところ、「企業」の「良心」を信じるシステムなのか。。。

商道徳は「欲と二人連れ」のもの

Posted by 技術開発者 at May 20, 2009 10:32 AM
こんにちは、かとうさん。

>結局のところ、「企業」の「良心」を信じるシステムなのか。。。

悪徳商法批判をしながら良く書いていたのが「商道徳は欲と二人連れでまもるもの」なんてことなんですね。なんていうかな、お客の信頼に応え、一つ一つの儲けは少なくても、長期間にわたって沢山のお客から少しずつ儲けさせていただく方が、トータルとしては儲かるという事を前提にしている訳です。古くからのことわざに「損して得取れ」なんてあったり、「三方良し(お客良し、お店良し、世間良し)」とかあるんだけどね。

なんていうかな、これが成り立つためには、お客が「良い店」を気合いを入れて選ぶという文化が必要ではあるんですね。そういう意味では一種のコンドラチェフの波のようなものも感じます。周りで売られているものに使い物に成らないような不良品が数割のレベルで存在する社会にいたら、誰だって「不良品をつかまない」という事に気合いが入るんじゃないかな(笑)。そんな中では「うちはこういう規格を守って作っています」という目印があったら、とても強い競争力になるよね。JIS認定工場になるための手間が多少掛かっても、その結果として生ずる競争力の方がはるかに魅力的だった時代にJISマーク制度なんて生まれた訳です。でもって、なんていうかな不良品が無くて当然と思えるくらいに不良品が少なくなった時代になると、お客は「不良品をつかまない」という事に気合いが入りようもないよね。100円ショップの製品にほとんどJISマークは付いていないけど、戦後から昭和30年代の製品に比べたら遙かに品質の安定性は高い様に見えるわけです。そうなると、「お客が選ぶ気が無いなら、不良品を排除するのにお金をかけるのは無駄」になっていく訳です。実のところ、もっともっと「品質なんてどうでもよい、お客が選ばないからいけないんだ」と身の回りで売られているものの数割が不良品になる所まできたら、皆さんも「不良品をつかまない」という事に気合いがはいって、また、不良品を出さないことが競争力になる時代になるのかも知れませんね。

市場原理に期待ですね。

Posted by かとう at Jun 06, 2009 11:58 PM
いろいろ教えて頂き、(JIS関係者に直接教えてもらっちゃった^^)ありがとうございます。
現在の日本における社会規範では、(上で使わない方がいいって言いつつ、あっさり使ってますが。)比較広告は
出来ないため(性能が何%上がったと書かれていると、そこに「当社比」って必ず書いてありますよね。)、同業
他社の商品の品質が悪いって指摘は、比較広告と類似行為なのでやり難いし、実際どこも出来ていません。
#やれるとしたら、同業者同士で作る業界団体とか、該当製品を使う側の企業(同業他社じゃないし、実際に使うから、
#声の大きい一利用者として言える。)は、可能性はあります。
慣習の基本部分に「和」が置かれているから、批判がしずらいんですね。
科学をしている人たちの社会内では、批判をする事は、批判された人に利益がありうるのが当然と考えているので
タブーではないですが。
アメリカの様に、「競争こそ是」という価値観が共有されている社会では、比較広告なんて当たり前ですし、多分
私企業が同業他社の品質にクレームをつけるのも普通にやられていると思います。(表現の自由からも、がっつり
守られているので、彼らには常識的な行為だと思われます。)
日本でも今後変わっていくと予想はしますが、現状はまだまだです。

批判理由として「社会規範」は効果的か

Posted by やす at Jun 09, 2009 04:23 PM
TAKESANさんのところではお世話になりました。

ウソをつくことが社会規範上批判に値するということにはそんなに異議がないのですけれども、この批判理由は実際のニセ科学を批判する理由として使われているんでしょうかね。これまでのニセ科学に対する批判活動には、すべてもっと具体的かつ深刻な理由があったのではないかと思うんですけれど。

現状と乖離してまで極度に一般化した批判理由を掲げるメリットはなんでしょうか?

ウソと言っても、ピンからキリまで有りますし、小さなウソなら別についてもかまわないという人がいても不思議では有りません。それならば、漠然と「ウソをつくことが社会規範上批判に値する」を批判理由にしてもあまり効果的ではないように思えるのですが。むしろ、「そんな漠然とした理由で批判活動をしているのか」という謝った印象を持ってしまう人が出てきてしまう危険はありませんか?

個々のニセ科学を批判する行為には立派な理由があるのですし、別に一般化した理由を掲げなくてもいいと思いますけど。反対している人も少なくないようですし。

apjさんは「ニセ科学批判」は存在しない、個々の「ニセ科学」を別々に批判する行為が存在するだけだ、という主旨の発言をなさってますよね。私もそれには大賛成なんですけれど、それなら尚更すべてのニセ科学にあてはまる批判理由を掲げる理由はないと思うんですけれど。

正しい、正しくないの議論ではなく、どうしたらより効果的か、ということを私なりに考えて投稿しました。

別に乖離はしていません

Posted by apj at Jun 09, 2009 07:51 PM
やすさん、

>これまでのニセ科学に対する批判活動には、すべてもっと具体的かつ深刻な理由

 例えば、他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる、といったものですよね。「嘘をつくな」にまんま当てはまると思いますけど。で、これにあてはまるものが実は大部分です。
 個別のニセ科学が、被害発生の観点からどう分類できるかは、既にまとめました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/[…]/nisekagakumondai


>現状と乖離してまで極度に一般化した批判理由を掲げるメリットはなんでしょうか?

 私は、乖離もしてないし一般化もしてないと考えています。ニセ科学が問題になる場合の多くが、悪徳商法対策をしなければならない場合と重なっていますので。ところで、乖離している場合とは具体的にどれでしょうか。

>個々のニセ科学を批判する行為には立派な理由があるのですし、別に一般化した理由を掲げなくてもいいと思いますけど。反対している人も少なくないようですし。

 今回、社会規範をわざわざ持ち出した理由は、「批判批判を自称する人」対策、つまり、批判批判を自称しつつ、嘘や不確かなことを科学に限っては言いふらしてもいいんじゃないの、と主張する人達への対策です。科学だけ別扱いにしたがる人々に対して、はっきり非難する必要があるところまできていると認識したから、明文で入れたのです。
 反対する人がいたとしても、それが、これまで「批判批判を自称してきた人」であるなら、それは私の狙い通りです。

 つまり、構造としては次のようになります。
・ニセ科学を使って他人を騙している人に対して
 それをやると社会規範にも違反する結果、商売に使えば取り締まりの対象である。
 ※この場合は、実際に、強制力を伴った対応も可能なことがあります。また、社会規範云々を明文で言わなくても、実際に法的措置が可能です。言ってもいいし言わなくてもいい。
・ニセ科学で騙されかかっている人に対して
 その話はニセだから騙されてはいけない、と具体的に指摘して納得してもらうよう務める。
 ※騙されついでに、マルチ商法などにひかかって、他人に被害を与えそうになっている場合は、社会規範に触れて違法な行為として取り締まりの対象になる可能性まで告げることになる。
・「批判批判」を自称する人にしばしば見られる、なぜか科学だけ特別扱いしようとする人(科学の権威が云々、といった理屈を伴うことがある)
 ニセ科学は社会規範に照らすと良くないことだから、科学だけ特別扱いしようとするあなたの考え方は非難に値する。

 私は、「ニセ科学批判」だの「ニセ科学批判批判」だのというどうでもいい括りを生み出してしまったのは、ニセ科学を広めることが「非難」に値することだという部分の強調が足りなかったからだと考えています。既にこのことはblogの方でまとめました。
http://www.cml-office.org/archive/?logid=373

ありがとうございます

Posted by やす at Jun 10, 2009 04:59 PM
apjさん、

丁寧な回答ありがとうございます。

> 例えば、他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる、といったものですよね。「嘘をつくな」にまんま当てはまると思いますけど。

あ、私もあてはまると思いますよ。別にapjさんの主張に反対している訳ではないので。でも当てはまるのと、等価である、というのは違いますよね。(後述)

> 私は、乖離もしてないし一般化もしてないと考えています。

まず「一般化」についてですけど、一般化はしてますよね? 「他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる」がすべてのニセ科学にあてはまる訳ではなく、「嘘をつくな」というのがすべてのニセ科学にあてはまる訳ですから、これは立派な一般化ですよね。違うのかな。でも私のいう一般化は、以上の意味で使いましたので。あと、一般化することが別に悪いことではない、ということも念のために付け加えておきます。

> 乖離している場合とは具体的にどれでしょうか。

ニセ科学を批判する理由として「嘘をつくことは社会規範に背くから」ということを掲げるということは、現実の個々のニセ科学に対する理由とは違う(「他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる」と「嘘をつく」は等価ではない)ので乖離していると思いました。

> 今回、社会規範をわざわざ持ち出した理由は、「批判批判を自称する人」対策、つまり、批判批判を自称しつつ、嘘や不確かなことを科学に限っては言いふらしてもいいんじゃないの、と主張する人達への対策です。科学だけ別扱いにしたがる人々に対して、はっきり非難する必要があるところまできていると認識したから、明文で入れたのです。

この 「批判批判を自称する人」達って「科学的に証明されていないのに科学を装うことが批判に値するかどうか」ということに対して議論しているんですよね。でもこの人達だって「他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる」ことを批判することに対して異議を申し立てている訳ではないんでしょう?

> 反対する人がいたとしても、それが、これまで「批判批判を自称してきた人」であるなら、それは私の狙い通りです。

apjさんは何を狙っていらっしゃるんですか?それにこのコメント欄を見ても、「批判批判を自称してきた人」以外も疑問を感じているように思えますが。

私は、apjさんのおっしゃることは正論だと思うんですよ。でも、なるべく誤解による批判を避けるためには、多くの人が疑問に感じていることを表立って掲げる必要はないんじゃないかな、と思うんですよ。たとえそれが正しいことであっても。

まあ、apjさんは非常にまじめな方で、一方、私は結構こずるいので考え方に差が出るのはしょうがないと思いますけれど。私は最小の努力で最大の効果をあげられればいいのではないのかな、という考えです。

ちょっと整理

Posted by apj at Jun 10, 2009 06:41 PM
やすさん、

>「嘘をつくな」というのがすべてのニセ科学にあてはまる

 のであれば、すべてのニセ科学に対して、「嘘をつくな」という社会規範に違反しているという理由で批判なり非難なりをすることが可能だということですよね。もちろん、別の理由だけで批判や非難をすることが可能ですし、してもかまわないのですが、常に「嘘をつくな」に抵触ということが言える状態ではあるということになります。

>この 「批判批判を自称する人」達って「科学的に証明されていないのに科学を装うことが批判に値するかどうか」ということに対して議論しているんですよね。

 うーん、ちょっと違う人を想定してます。別のコメントにも書きましたが、科学以外のことについてまで権威を押しつけるなとか正当化するな、といった類の反論をしてくる人達を想定しています。「科学以外のこと」の部分をはっきりさせようとすると、科学以外の権威の原因を社会規範の方に求めるしかないだろうということになります。

>でもこの人達だって「他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる」ことを批判することに対して異議を申し立てている訳ではないんでしょう?

 私が想定している人達の場合は、間接的に、被害を発生させるような行為を後押ししているのではないかと考えています。やってる人達に自覚は無いでしょうけど。

>apjさんは何を狙っていらっしゃるんですか?それにこのコメント欄を見ても、「批判批判を自称してきた人」以外も疑問を感じているように思えますが。

 社会規範の部分を持ってくると説明することが多くなりそうだ、というコメントをもらっていると認識しています。社会規範の議論をすること自体に疑問を感じているという話じゃないですよね。残りは、例えば原則と例外の扱いについての議論だったりですから、社会規範を持ち込むこと自体への疑問ではないですよね。
 私は、今のところ、分量が増えても社会規範の説明の部分を充実させようという立場をとっています。実際にやってみて、どれくらい多くなるかとか、どこまで言わなければならないかを考えようとしているのですけど。

 何て言うか、暗黙の了解(?)のうちに科学以外の話はしないことにして目をつむってきた結果、ニセ科学の問題というのは科学の範囲に止まっている問題であると勘違いする人が増ちゃったのではないかと思ってるんです(水伝のように、道徳とか教育にあからさまに絡んだものもあるのですが)。実はそうじゃないだろう、ということを論じておきたいなあ、と思っています。本当は、法哲学か法社会学系の人がやってくれると嬉しいんですが、どうも、そっちの分野でこの話題に興味を持ってくれる人はなかなか見つからないし、私自身が法律学習の真っ最中なので、じゃあ、勉強しながら自分で考えるか、と……。

さらに詳しい解説、ありがとうございます。

Posted by やす at Jun 11, 2009 08:48 AM
>>「嘘をつくな」というのがすべてのニセ科学にあてはまる
>のであれば、すべてのニセ科学に対して、「嘘をつくな」という社会規範に違反しているという理由で批判なり非難なりをすることが可能だということですよね。もちろん、別の理由だけで批判や非難をすることが可能ですし、してもかまわないのですが、常に「嘘をつくな」に抵触ということが言える状態ではあるということになります。

いや、全くおっしゃる通りで、意義は有りません。ただ、一般の人が「嘘をつくな、という社会規範に違反している」と聞いたらどう思いますかね。結局、たいしたことないんじゃないのって思うんじゃないでしょうか。いや、勿論、この解釈の仕方は、例外とかを考えに入れていないから、間違っている訳ですよ。でも、一般の人たちはapjさんと違って、科学の知識も法律の知識もない訳ですから、間違って解釈してしまってもしょうがないと思うんですよね。それだったら、一般の人にもわかりやすい個別の批判理由を前面に出した方が効果的ではないかな、と思う訳ですよ。

>「科学以外のこと」の部分をはっきりさせようとすると、科学以外の権威の原因を社会規範の方に求めるしかないだろうということになります。

例えば、「他人を騙してインチキ商品を買わせることにより消費者被害を発生させる」ということは社会規範に抵触していますよね。(違うのかな。)だったら、個別批判理由のみで十分効果的ではないかと。

> 私が想定している人達の場合は、間接的に、被害を発生させるような行為を後押ししているのではないかと考えています。やってる人達に自覚は無いでしょうけど。

こういう人たちは、批判というよりもいい逃れをしている訳ですね。

> 社会規範の部分を持ってくると説明することが多くなりそうだ、というコメントをもらっていると認識しています。社会規範の議論をすること自体に疑問を感じているという話じゃないですよね。残りは、例えば原則と例外の扱いについての議論だったりですから、社会規範を持ち込むこと自体への疑問ではないですよね。

私もまさに同感で、社会規範を持ち込むことによる説明の煩雑さ、誤解される危険性を指摘している訳です。
 
> 私は、今のところ、分量が増えても社会規範の説明の部分を充実させようという立場をとっています。実際にやってみて、どれくらい多くなるかとか、どこまで言わなければならないかを考えようとしているのですけど。
> 本当は、法哲学か法社会学系の人がやってくれると嬉しいんですが、どうも、そっちの分野でこの話題に興味を持ってくれる人はなかなか見つからないし、私自身が法律学習の真っ最中なので、じゃあ、勉強しながら自分で考えるか、と……。

なるほど。apjさんの向上心と努力には頭が下がります。

社会の健常な保守性

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 09:10 AM
こんにちは、やすさん。

少し私が考えている事を説明します。ニセ科学問題というのはよく考えていくと、科学者とか学会というものの「不要論」につながるのでは無いかと考えています。

変な話ですが、ノートの下地が白いから、重要部分に赤線を引くと目立ち、筆箱の中に赤ペンを入れておく意味があります。もしもノートの下地が赤なら、赤線は目立たず、筆箱の中に赤ペンを入れておいても仕方ない訳です。

私は、もともと社会というのは新規な言説にとりあえず疑いの目を向ける、あるいは拒絶するという保守性を持っていたのだろうと考えています。言い方を変えるなら、「頭ごなしに否定する」が下地であったわけです。これは一面で合理的なのです。「見たことも無いキノコ」を見つけたとき「とりあえず、毒キノコかもしれないから食べない」という意味でね。その保守性の下地の上で、新規な事柄を見つけ出し証明し世の中に出していくという「毒味役」の役割として科学者などが居たと考えています。科学者の役割は、その保守的な社会に新規なことをもたらす事ですから、一人だと弱い訳です。そこで仲間を募ります。「このキノコは食べられるよ」なんてね。まず同じ様な毒味役同士で食べてみて「確かに食べられる、おいしい」と集団で社会に出すとき、保守的な社会もようやく「それなら食べてみようか」となるようなイメージです。当然ですが、社会と科学者やその集団である学会とでは新規な事柄に対する姿勢が違います。社会は「頭ごなしに否定する」であり、学会は「とりあえずは否定せず確かめてみよう」です。

ところがいつの間にか、この学会の姿勢である「とりあえず否定しない」が社会の姿勢になってしまったのだろうと思います。当然ですが、「嘘を言うな」「いい加減な事を言うな」という規範は保守的な社会を維持するための規範ですから、そのような規範の存在は許されません。つまり、そういう規範もまた捨て去られる訳です。でもって、良く考えてみると分かるのですが、社会全体が「毒味役」になった社会で「毒味役」である科学者は存在が必要でしょうか?あるいは毒味役同士で毒味の結果を評価し合う学会というのは存在が必要でしょうか?

新しいキノコを誰かが「食べられる」という度に我先に飛びついて食べ、その結果食中毒になったところで、それは社会が選択した社会のあり方に過ぎないとも言える訳です。そういう社会こそ理想的だと皆さんが思っているから、ニセ科学がこれほど蔓延しているのではないかと思っています。

とりあえず

Posted by やす at Jun 16, 2009 04:13 PM
こんにちは、技術開発者さん。

ええと、上のコメント(キノコの例がある話)は、どこまで本当のことなんですか?
フィクションと事実を混同すると、とてもわかりにくくなるので、一応はっきりさせていただけませんか。

全てフィクションですよ

Posted by 技術開発者 at Jun 17, 2009 08:02 AM
こんにちは、やすさん。

>ええと、上のコメント(キノコの例がある話)は、どこまで本当のことなんですか?
>フィクションと事実を混同すると、とてもわかりにくくなるので、一応はっきりさせていただけませんか

私は最初に「考えている事を説明する」と書いていますよね。「考えた」と言うことに関しては事実ですが、考えた内容というのは、哲学的意味で常に「事実ではありえません」。人間は自室を認識することができますが、事実というのは人間の意識の外にあり、人間の意識の中に生ずるのは「事実の認識」であって事実ではありません。二元論分類でしか、世の中をにんしきしないのなら、上は全てフィクションということになります。

まず人の認識というのが事実ではなく事実の投影にすぎないという同然のことをご認識ください。

二元論分類???

Posted by やす at Jun 17, 2009 11:24 AM
こんにちは、技術開発者さん。

では、

人間は事実を述べることはできない。
人間のいうことはすべてウソである。

ということを、おっしゃりたいのでしょうか?
いまいち技術開発者さんの立ち位置がわからないんですけど。
二元論分類以外の解説をしていただけますか。そうすればすべてがフィクションにはならないんですよね。

ええと、それはそれとして、もとの質問のしかたを変えます。

上のコメント(キノコの例がある話)は、根拠が有るのですか?

なぜそこにこだわっているかがわからないのですが

Posted by apj at Jun 17, 2009 01:50 PM
やすさん、
 私は、キノコの例はたとえ話として読みましたが、技術開発者さんの主張したいことの内容は理解できました。
この場合、仮に、キノコの例が事実であったとしても、技術開発者さんの主張したいことの内容が違ってくるとは思えないんですよね。だから、この部分がフィクションでもノンフィクションでも議論の筋には関係が無いと思ってるのですけど。

 キノコの例が事実であった場合とたとえ話であった場合とでは、技術開発者さんの書かれた内容がどのように変わってくるとお考えなのでしょうか?

よく読みましょう

Posted by やす at Jun 17, 2009 03:04 PM
apjさん。

「キノコの例がある話」というのは、どの話のことを指しているかはっきりさせるために書いたのであり、「キノコのたとえ話そのもの」の真偽のことを聞いているのでは有りません。

私がお聞きしたいのは、

「もともと社会というのは新規な言説にとりあえず疑いの目を向ける、あるいは拒絶するという保守性を持っていた」が、『いつの間にか、この学会の姿勢である「とりあえず否定しない」が社会の姿勢になってしまった』という主張には根拠があるのか。

ということです。

あと、「そういう社会こそ理想的だと皆さんが思っているから、ニセ科学がこれほど蔓延しているのではないかと思っています。」の「皆さん」って誰?私のことも含まれているのですか?

書き方が曖昧だと思いました

Posted by apj at Jun 17, 2009 07:44 PM
>「もともと社会というのは新規な言説にとりあえず疑いの目を向ける、あるいは拒絶するという保守性を持っていた」が、『いつの間にか、この学会の姿勢である「とりあえず否定しない」が社会の姿勢になってしまった』という主張には根拠があるのか。

 それなら最初からそう書けば、誰が読んでもキノコの例そのものの真偽の話をしているのではないとわかるので、誤解の生じる余地は無かったと思います。

>ええと、上のコメント(キノコの例がある話)は、どこまで本当のことなんですか?

 を普通に読むと、キノコの例は事実でそれ以外は考えである、あるいは、キノコの例自体が作り話、といった解釈もできます。「どこまで」の解釈が何通りもあるんです。良く読んでも、私には、後で書かれたような意味には受け取れませんでした。

アホらしくなったのでね

Posted by 技術開発者 at Jun 18, 2009 09:13 AM
こんにちは、apjさん。アホらしくなったので、説明は辞めてしまいます。

おそらくやすさんには、仮説という概念そのものが無いんだと思います。

きくちさんやapjさん、そして私などがニセ科学批判を始めたのは「事実」発生したからですよね。例えば、堀口昇という健康器具会社の社長が言い始めたヨタ話に過ぎない「マイナスイオン」が流行語となり、大手家電までが「マイナスイオン製品」を販売したという事実、能見正比古という受け狙いの文筆家が言い始めた「血液型人間学」がいつの間にか社会に広まって、血液型を人事の参考にする会社なんかも出始めたという事実、江本勝の写真集にすぎない「水からの伝言」に書かれた「言葉ができる結晶の美醜に影響する」というヨタ話が教育関係者の一部に受け入れられて教育に使われ、また国会の文教委員会で「教育に取り入れろ」と発言する国会議員が出てきたという事実、こういった事実に対して、私たちは「このような事実が発生するのは将来のために良くない」と考えて動き始めた訳です。

でもって、事実に対処するためには、その事実が起こった要因を解析しなくては成らず、解析した結果として「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。そこから、「それは科学的な事ではありませんよ」というニセ科学批判が始まった訳です。

私の「社会の健常な保守性の崩れ」という考え方は、この解析結果である「言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にある」という事を前提とおいて、そのような傾向がなぜ生じたかについて仮説を立てたものにすぎなんですね。或る意味で、自然科学が技術を通じて社会にブレークスルーを沢山だしてきた結果の副作用かも知れないと思うんですね。科学であれば、今までの常識から離れた現象がおきて当然みたいな感じですかね。まあ、自然科学に限らないんですけどね。経済学におけるフリードマンの新自由主義も「経済学だ」というだけで、レーガン以降の米国政権や中曽根以降の日本の政権に無作為に取り入れられるし、成果主義についても「経営学」であることによって無作為に取り入れられたりしますからね。

そもそも、普通は、

Posted by かとう at Jun 18, 2009 10:04 AM
主張・本論があってまずそれを書く。
それが解りにくいと思われる場合、たとえ話や仮説を足すんですが、技術開発者さんは、たとえ話、仮説しか書かないからですよ。
だから、何の主張なのかのピントがボケたり、誤読されたりする訳で。

今回の話で言えば、まず
Posted by 技術開発者 at Jun 18, 2009 09:13 AM
の第3,4パラグラフを書いて、そのたとえとしてキノコの話を書いてあれば、意図はわかりますし、例えも主張の理解の助けになりますね。

文筆家のエッセイ等では、「誤読する読者は必ずいる。しかし、誤読を読者の所為にしていてはいけない。」旨の
発言はよく見かけます。(余談ですが、ミステリ作者は、「誤読してもらったら、本論のナゾが理解してもらえないので、
如何に誤読させないか。また本論のナゾに関しては、種明かしの場面まで、如何に誤読させ、誤読したままでいさせるか
が難しいと発言されてますね。)

なんだ、解析結果があったんですね

Posted by やす at Jun 18, 2009 01:08 PM
こんにちは、技術開発者さん。

じゃあ、その資料を是非読みたいので、入手方法を教えてください。
ニセ科学批判にものすごく役立つと思いますよ。

そもそも……

Posted by apj at Jun 18, 2009 06:54 PM
 「ニセ科学批判」という括りはできないという話をしているところでして、何に役立つのか意味不明ではないかと。

つい省略表現を使ってしまいました。

Posted by やす at Jun 19, 2009 02:26 AM
確かにそうですね。
以下のように訂正します。

訂正文:ニセ科学を批判するときに、社会規範を根拠にすることが正当であるという証拠として役立ちますよ。

ところで、「ニセ科学批判」と「ニセ科学を批判すること」は意味が違うんでしょうかね。「ニセ科学批判」という括りができないのなら、「ニセ科学」という括りもできないように思うんですけれど。

コメントの幅が狭くなってきたので……

Posted by apj at Jun 19, 2009 10:28 AM
やすさん、

下の方で新たにお返事しますね。
このコメント欄の仕様が、返信を繰り返すとだんだん狭くなりますので。

インスタント志向

Posted by apj at Jun 18, 2009 07:00 PM
 弁護士の紀藤正樹が「インスタント志向」と表現していますね。
 インチキダイエット法や健康グッズに飛びつくことが原因の消費者被害が続出していることについて言ったものです。この場合、科学はそんなに前面に出てこなくて、そのかわり、簡単に確実な結果が得られるという謳い文句に釣られる傾向、という捉え方になっています。
 簡単で便利で都合のよい方法は無い、というのが身も蓋もない事実なのですが、謳い文句の簡単・確実の部分を強めるために、科学を装うというやり方が使われているという話になるのでしょうね。

訂正します

Posted by やす at Jun 18, 2009 04:06 AM
apjさん、

>「どこまで」の解釈が何通りもあるんです。

おっしゃるとおりですので、以下のように訂正します。

訂正文:「キノコの例がある話」というのは、どの話のことを指しているかはっきりさせるために書いたのであり、「キノコのたとえ話そのもの」の真偽のことだけを聞いているのでは有りません。

最初の質問に書いたように、私には、技術開発者さんのコメントそのもののどこからどこまでが根拠の有るものであるかわかりませんでした。しかし、技術開発者さんのお答えで少なくとも「キノコのたとえ話そのもの」は何の根拠もないことがわかりました。ですから、私にとって重要なのは、技術開発者さんの主張そのものには信憑性があるのか、ということです。

『「どこまで」の解釈が何通りもある』のは、もとの技術開発者さんの話の信憑性が曖昧だからであり、当然のことです。私の書き方が曖昧だからでは有りません。

曖昧です

Posted by apj at Jun 18, 2009 10:32 AM
やすさんは、後で

>「もともと社会というのは新規な言説にとりあえず疑いの目を向ける、あるいは拒絶するという保守性を持っていた」が、『いつの間にか、この学会の姿勢である「とりあえず否定しない」が社会の姿勢になってしまった』という主張には根拠があるのか。

のように誰にでも分かるように書いているわけです。これを最初にしなかったのはなぜですか?
 技術開発者さんの書き方が曖昧だから、このようにはっきり書けるにもかかわらず、わざとに曖昧に書いていたということですか。

曖昧なのは私のせいではありません

Posted by やす at Jun 18, 2009 12:23 PM
apjさん、

>これを最初にしなかったのはなぜですか?

最初の段階では、キノコの話を含め、すべての点において事実であるかどうかが曖昧だったからです。だから、はっきり書けなかったのです。前にも書いたとおり、「キノコのたとえ話そのもの」は何の根拠もないことがわかりました。
対話の中で問題点がはっきりしてくるというのは普通のことですよね。

それに、私が別に問題点をはっきり書かなくても、もともと文章全体を曖昧に書いたのは技術開発者さんなのですから、私が問題点を明確にしてあげる義理はありません。

理路が違います

Posted by apj at Jun 18, 2009 04:29 PM
>それに、私が別に問題点をはっきり書かなくても、もともと文章全体を曖昧に書いたのは技術開発者さんなのですから、私が問題点を明確にしてあげる義理はありません。

 あなたが書いたものの責任は、技術開発者さんではなくてあなたにあるので、あなたが書いた文章が誤解されたのを私の責任にするのは筋が通りません。

言葉が足りませんでした

Posted by やす at Jun 19, 2009 02:15 AM
これは、私が技術開発者さんに問題点を明確にしてあげる義理はない、という意味です。
申し訳ありません。

了解です

Posted by apj at Jun 20, 2009 03:28 AM
>これは、私が技術開発者さんに問題点を明確にしてあげる義理はない

そういう意味ならば、わかります。

弱い強制力ということ

Posted by 技術開発者 at Jun 15, 2009 03:46 PM
こんにちは、やすさん。

古い落語などには「せんみつの与太郎」とか出てきますよね。

八:「おい、今度のお祭りに、うちの御輿は出ないって話だが、とうしたんだい」
熊:「何言ってやがる。おれたちが昨日すす払いしたばかりだ、出ないわけがあるまい。誰に聞いたんでぃ。」
八:「与太郎が、『壊れているから今年は出ない』と言って歩いたのを小耳にはさんだのよ」
熊:「馬鹿だなぁ、おめぇもよ。与太郎といやぁ、せんみつじゃないか」
八:「なんだい、そのせんみつというのは」
熊:「千のうち3つくらいしか本当の事がないからせんみつよ。どうせあの馬鹿野郎、昨日のすす払いで飾りが取れて騒きになったのを大げさに言いふらして居るんだろうよ。おめぇも、与太郎の話なんか真に受けて言いふらして歩いたら、せんみつと言われるぜ」
八:「すまねぇ、兄貴。まだこの長屋に越してきて間がないものだから、せんみつの見分けがつかねぇんだ」

なんてのが「せんみつの与太郎」の周りで交わされる会話である訳です。ここで理解して欲しいのは、落語の世界では「せんみつの与太郎」は少し足りないおっちょこちょいとして描かれる事が多い訳で、同時に与太郎は皆に叱られたり馬鹿にされたりしますが、実のところ周りは諦めている面があります。「与太郎だからしかたない」みたいにね。でも与太郎の話を真に受けて言いふらして歩きそうな八を熊は止めていますよね。このように止める事の根底に、与太郎が「叱られたり馬鹿にされたりする人物」として描かれ、越してきて間がない八が与太郎の同類として長屋の皆から「叱られたり馬鹿にされたりする人物」となることを防ごうとしている面があるということです。

社会規範を違反している人は誰?

Posted by やす at Jun 16, 2009 08:43 AM
こんにちは、技術開発者さん。

ええと、引用された落語の話ですけれど、これは社会規範の話と何か関係があるのでしょうか。
熊がいいことをした、ということはわかりますけれど、社会規範を違反している人はこの話の中では与太郎だけですよね。しかも、この話の中では、与太郎は「しかたない」とされていますよね。
この話は社会規範の話と、具体的にどのようにつながるのでしょうか。

熊は与太郎をも守っているということ

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 09:54 AM
こんにちは、やすさん。まあ、落語はフィクションだけとどね。

>これは社会規範の話と何か関係があるのでしょうか。

なんていうかな、落語の世界では与太郎はきちんと長屋の中で存在できているのね。それは、熊みたいな人が「あいつはせんみつだよ」と新しく越して来た八に伝えることで、大きな問題が起きるのを封じているからなのね。

与太郎というのを現代の精神医学で解析したなら「虚言癖のある軽度の知的障害者」になるかも知れないんだけど、狭い長屋というコミニティーの中で充分に生きて行けた訳ね。周りから叱られたり馬鹿にされたりしながらも、周りが彼の虚言を常に割り引いて「真に受けない」ことで、与太郎は問題を起こさずに長屋に居られるという事ね。

なんとなく現代だとどうなるんだろうな、なんてね。まあコミニティーの大きさがずいぶん違うから比較もできないんだけと、熊の役割をして八に「あいつの言うことを真に受けるな」なんて言う人もいなくて、八が何かを真に受けて大きな困り事になって「なんて人迷惑な奴だ施設に入れてしまえ」みたいになるのかななんてね。

私は悪徳商法批判をずいぶんやってきたんだけどね。中にはあるのね、いわゆる巷の発明家がネタになっている悪徳商法なんてのもあるわけですよ。なんていうかな、放っておけば「変なおじさん」で済むような巷の発明家に詐欺師が食いついて持ち上げて、いつの間にかマスコミまで話を広げて、結局詐欺師集団の上の一人にしてしまうような流れもあるのね。まあ、これなんかは与太郎と逆の流れになっている訳だけどね。

なんていうかな、「そんなの嘘ですよ(あいつはせんみつだよ)」という批判って、一面でそのどうしようも無い本人(例えば与太郎)もまた守っていた面があると思うんですね。なんとなく「批判する」という事を「少なくとも対象者を貶めることにつながる」としか考えられない様になった社会では、与太郎は社会に居場所を持てなくなるんだろうななんて思うんです。

???

Posted by やす at Jun 16, 2009 01:51 PM
こんにちは、技術開発者さん。

ええと、つまり、ニセ科学を批判する人たちはニセ科学を吹聴する人たちのことをも擁護しているということですか?
で、それが社会規範と、どう関係するのでしょうか。

規範遵守=悪いことを未然に防ぐ=誰も損しない

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 06:21 PM
こんにちは、やすさん。

>で、それが社会規範と、どう関係するのでしょうか。

規範というものを、「守らないと罰せられる」ものとして捉え、「守れば誰かが得をし、誰かが損する」バターターがあるものとして捉えて欲しくないと言うことです。社会において「悪いこと」が起こると、関係者皆が「損をする」という概念が必要なんです。そして規範というのは「悪いことをしたものを罰する」という面は否応なしに持ってしまうけど、理想型はよりも「悪いことが起こらないようにする」という「抑止力」をもつことで、悪いことを未然に防ぐことで「誰も損しない」ことを目指す面が大きいんです。

例えば、銀行の窓口がお客から預かった現金を横領したとしますね。でもって捕まってお金は戻ったとします。それでも、お客は「えっ預金されて居ないんですか」と吃驚したり、気を揉んだりした分損をします。銀行はイメージダウンした分損をします。横領した行員は、横領した金を取り返されただけではなく、刑事罰のたいしょうとなるし、おそらく失業するし、次の仕事も見つかりにくくて損をします。

親が子供に「人様のものに手を出してはいけないよ」なんて規範をたたき込むことで、横領が起こらなければ、少なくとも、上の皆の損は起こらない訳です。

私は「法は人を守るためにある」なんて良く説明していたんですね。刑法なんてのは罰という厳しい面を表に出した法律だけどね。でもね、「罰したくて作られた法ではない」という説明を良くしてきたのね。「罰を前面に出すことで、罪を犯す前に踏みとどまって欲しい」として作られた法だみたいな説明を良くしてきた訳ですよ。

どこが問題なんですか?

Posted by やす at Jun 17, 2009 04:11 AM
こんにちは、技術開発者さん。

>規範というものを、「守らないと罰せられる」ものとして捉え、「守れば誰かが得をし、誰かが損する」バターターがあるものとして捉えて欲しくないと言うことです。

「バターター」というものが何を意味するのかが、よくわからなかったのですが、とりあえず、技術開発者さんは、私が社会規範について上記のように誤解しているので、落語の話を持ち出したということですね。では、私の発言のどこが問題であるか具体的に指示していただくと、もっとわかりやすいのですが。

社会観の問題ですから

Posted by 技術開発者 at Jun 17, 2009 08:32 AM
こんにちは、やすさん。

>「バターター」というものが何を意味するのかが、よくわからなかったのですが、

ごめんなさい、「バーター」と打とうとして手が滑っていました。

>では、私の発言のどこが問題であるか具体的に指示していただくと、もっとわかりやすいのですが。

個別にどこという事でもないんですね。全体に「社会」っていうものの認識が甘いっていうか、「ご本人がその社会で生きている実感を持っていない」感じを受けるわけです。別にやすさんだけじゃなくて、ネットで色々お話をうかがっていると、そういう人は多いんですけどね。

私は悪徳商法批判の世界が長かった訳ですよ。欲と嘘が渦巻く世界ですね。だからこそ、社会の普通のまともな部分が、いかに普通の社会規範に支えられているかを感じるわけです。そして、その社会の普通にまともな部分の根底にある規範のゆらぎを感じるときに、背中に寒気が走るような思いを感じます。この寒気というのは、おそらく、いくら説明してもおそらくもやすさんと共有する事はできない部分なんですね。


それでは教えてください

Posted by やす at Jun 17, 2009 11:06 AM
こんにちは、技術開発者さん。

>全体に「社会」っていうものの認識が甘いっていうか、「ご本人がその社会で生きている実感を持っていない」感じを受けるわけです。

私の文章を読んで、なぜ以上のような「感じを受け」たのか、その根拠を説明していただけますか。

また、『「社会」っていうものの認識が甘い』ことと社会規範との関連、および「ご本人がその社会で生きている実感を持っていない」ことと社会規範との関連も説明してください。

あと、落語と社会規範との関係もいまだにわからないんですけど。

よろしくお願いします。

ここでもバランスの問題かな

Posted by apj at Jun 16, 2009 04:47 PM
技術開発者さん、

 この落語の例だと、熊さんが「与太郎はせんみつだから」と八に言い、周りもそれを知っている状態が保たれているから大したことにならずに済んでいるわけですよね。
 もし、熊さんが「与太郎はせんみつだから」と八に言う行為に対して、周りが「そんな悪口いいなさんな」などと言って止めてしまうと、八が誤解したままになり、さらにデタラメを広めることも止められず、最後に、嘘が原因で何か大きな被害が発生して、与太郎も八も処罰されたりする結末になりそうですね。

 昨日、私は、規範に対抗するものは別の規範だと書きました。多分、「せんみつじゃ困る」「悪口は良くない」がぶつかった時に、どう判断するかって話なのかな、と。まあ、せんみつだからといって与太郎を目一杯罵るのはよくないわけで、多分、せんみつが原因で起きそうな被害を食い止めるのに必要な程度ならば多少の悪口も仕方ない、あたりで妥協するしかないのでしょうね。これを、思いっきり堅苦しくすると、名誉毀損の免責要件の話につながったりするんでしょうけど。

規範の強さに応じたペナルティ

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 06:27 PM
こんにちは、apjさん。

>まあ、せんみつだからといって与太郎を目一杯罵るのはよくないわけで、多分、せんみつが原因で起きそうな被害を食い止めるのに必要な程度ならば多少の悪口も仕方ない、あたりで妥協するしかないのでしょうね。

私は「規範の強さに応じたペナルティ」が常に世の中にはあると考えています。例えばマナー違反は「その時、その場に居た人たちに嫌われる」といったペナルティ、道徳的な違反はどこか知らないところで「今度の会長は誰々さんあたりかな」「いや、あの人は人間性に問題があるから」と名誉ある役職への推薦が見送られたりとかね。なんていうか、法律という規範は強い規範であり当然、そのペナルティは大きいのですが、マナーや道徳性という弱い規範には、それに応じた弱いペナルティーというのは常に無ければならないんじゃないかと思っています。

補足です

Posted by apj at Jun 09, 2009 08:36 PM
 これまでは、特に社会規範の話抜きでニセ科学を問題にしてきたのだけど、そうしたら、科学以外のことまで正当化するな、といった反論が出てきたんですよ。科学以外のこと、というのが態度の問題だったりで、でも態度が具体的にどうまずいのかという話にはならず、突き詰めていくと、「ニセ科学だといってクレームを付けられたのはけしからん」位しか内容が無かったりするわけです。
 そうなると、この部分については、先に「社会的に非難される”嘘を広める”行為をしたのだからクレームがつくのは当たり前で、まずは態度が悪い云々と言ってごまかすのはやめましょう。その上で、あなたが受ける社会的非難に見合わない程の”ひどい態度”でクレームをつけられたというのなら、その部分については別途問題にしましょう」とやっておく方がむしろ効率的かもしれません。

社会規範を入れた理由の1つ

Posted by apj at Jun 10, 2009 10:57 PM
 ちょっとコメントを分けます。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29
に自称「批判批判」者の一例が出ています。逝きし世の面影さんのことです。
主張の方は、やりとりを読んでいただくとして、自らの政治的主張を正当化するためにニセ科学批判批判のスタンスをとる人、というのが現実に居るわけです。だから、そういう「嘘つきを擁護する」ことは非難に値する、と、きっちり論を立てておかないとまずいんじゃないでしょうか。
 でなければ、この手の人は、ニセ科学を問題にする行為に対して、カルト云々といった妄想を振りまきますよ。他の人達が同意しているのがこの社会における規範を背景としているからだ、という認識を欠いていることを、わかりやすく示しておかないとまずいでしょう。いずれにしても、問題が科学だけだと勘違いしているから、「科学教」といった表現が出てくるんじゃないでしょうか。その「教」の部分は、実は宗教的教義ではなく、もう少し一般化できる社会規範が既にあり、その再確認に過ぎないということをはっきりさせておかないと、別の誤解が蔓延するんじゃないでしょうか。

それでもよくわからない「社会規範を入れた理由」

Posted by やす at Jun 12, 2009 06:39 PM
apjさん、
>もう少し一般化できる社会規範が既にあり、その再確認に過ぎないということをはっきりさせておかないと、別の誤解が蔓延するんじゃないでしょうか。

ということはやっぱり「一般化はしていた」ということになりますよね。いや、ちょっと自分が間違った言葉の使い方をしているんじゃないかと不安になったもので。

引用先で問題になっている方(逝きし世の面影さん)ですけど、この方の議論は、陰謀論のことが中心になってますね。陰謀論なんかはニセ科学とは直接関係ないんだから、きくちさんも放っておけばいいのにとは思いますけどね。ま、正義感が強いんでしょうけれども。

で、まあこういう困った人たちが出てきて、それに対抗する必要があるということはわかりました。「ウソをつくことが社会規範違反である」ということにも私個人は異論がないし、たぶん多くの方も賛成されるでしょう。しかし、「ウソをつくことが社会規範違反である」ということを批判理由に挙げることが、どのように批判批判者達への対抗策になっているかが、全くわからないんですよ。

いや、根底に「ウソをつくことが社会規範違反である」ということが有ることは全く同意しますよ。でも根底に有るものを前面に押し出しても、さほど効果はないんじゃないでしょうか。「ウソはみんなついてる」とかなんとかいった変な反論されて、その度に説明しなきゃならないようになるんじゃないでしょうかねえ。知らない人も「何だウソをついただけか」と思うだけで、どれだけニセ科学の被害が深刻なものか理解できないような気がしますけど。

それよりも、apjさんが最近提案なさっている「ニセ科学批判は存在しない」という議論をもっと押し進めていけばより効果的なんじゃないでしょうか。つまり、一般化を避ける方向に議論を持っていけば、個々の事例でのニセ科学の不正さ、理不尽さ、被害の深刻さが浮き彫りになるんではないかと、私なんかは思ってしまうのですが。

余計なことかもしれませんが、引用先で問題になっていた「ムペンバ効果」ですけれど、あれは結局ニセ科学なんですか?実験してるからニセ科学っぽいですよね。

足元を見ろ、という意味でもあります

Posted by apj at Jun 12, 2009 10:14 PM
やすさん、

 今日の別のコメントにも書いたのですけど、もし、社会の側が「インチキでも騙しでもOKで、嘘をつくことは何もわるいことではない。騙される側がただのアホだというだけなので、そういうのは自己責任でどうにかすればよい」という規範を持つことになったら、その社会ではニセ科学を問題にする必要は無くなるだろうということです。で、自然科学は自然を相手に勝手に精度を上げれば良いのであって、社会でニセ科学が蔓延してもちっともかまわない、ということになります。

 あと、きくちさんが陰謀論の話をしているのは「非合理」に対する対策でしょう。ニセ科学を問題にする人が、他の非合理を問題にしない理由も無いわけです。

>「ウソはみんなついてる」とかなんとかいった変な反論されて、その度に説明しなきゃならないようになるんじゃないでしょうかねえ。
 それが変な反論である、ということの説明を逐一しなければならないほどに、科学以外の部分も崩れてるというのが現状じゃないでしょうか。

 科学の知識「だけ」が欠けているためにニセ科学が蔓延しているのなら、まだ話は簡単だったかもしれません。現実には、科学以外の文系分野のそこかしこも科学と同程度にはリテラシー不足の様子なので、必要ならば、余分な説明でもしなければならないでしょう。

>知らない人も「何だウソをついただけか」と思うだけで
 こう考えてしまうということが、既に、規範が相当に揺らいでいることを意味しているだろう、というのが私の認識であり問題意識なんですよ。個別のニセ科学の議論と同時に、「なぜウソはいけないとされているか」も示しておかないとまずいでしょう。

>それよりも、apjさんが最近提案なさっている「ニセ科学批判は存在しない」という議論をもっと押し進めていけばより効果的なんじゃないでしょうか。つまり、一般化を避ける方向に議論を持っていけば、個々の事例でのニセ科学の不正さ、理不尽さ、被害の深刻さが浮き彫りになるんではないかと、私なんかは思ってしまうのですが。

 それはとっくにやってます。やった結果、社会規範も必要だという結論に到達したのです。もちろん、さしあたっての結論ですから、しばらくやってみてまた変わるかもしれませんが。
 それでも、もし社会規範の側が「嘘はOK」に変わってしまったら、ニセ科学を問題にすることの意味が無くなります。
ですから、ここ数年、ニセ科学を問題として取り上げてきたということには、科学として正しい面と社会規範として正しい面の両方が最初から含まれていたのだと考えるしかないのです。
 規範というのは、自然現象ではないので、意識して考えて維持しないと維持できないものでもあるのです。今、ニセ科学を問題にする行為の「正しさ」の半分は規範としての正しさである(残りは科学としての正しさ)、ということを無視してしまったら、規範の崩れ方に応じて、「正しさ」もまた失われていくことになります。

 ニセ科学を問題にするということが何に依拠しているのかくらいは、網羅して認識してないと混乱すると思います。科学的正しさは当然として、具体的な被害発生というのもあるでしょう。でも、これまでに共通して抜け落ちていたのは、社会規範に対する意識というか認識だと思うんですよ。まあ、社会規範といっても、「ウソをつくな」程度の、割と単純なものでしかないのですけどね。



>余計なことかもしれませんが、引用先で問題になっていた「ムペンバ効果」ですけれど、あれは結局ニセ科学なんですか?実験してるからニセ科学っぽいですよね。

 氷の研究者にとってはニセ科学ではなくて未科学です。
 氷を早く作る方法として、あたかも既に確立された話であるかのように紹介したものはニセ科学です。

ムペンバ効果についてもう少し教えてください

Posted by やす at Jun 14, 2009 12:04 AM
>氷を早く作る方法として、あたかも既に確立された話であるかのように紹介したものはニセ科学です。

じゃあNHKの「ためしてガッテン」は確実にニセ科学ですね。

>氷の研究者にとってはニセ科学ではなくて未科学です。

 前野 紀一先生の論文ですけど、
(1)『「湯と水くらべ」のサイエンス』という題名に科学であるかのような錯覚を起こさせてしまう恐れが有る。
(2)実験をしている
(3)物理の知識が有るきくちさんは未科学であることを見抜いたが、一般の人には無理である。事実Looperさんはこれを「科学である」と認識している。
        >きちんと「科学」されていることがよく分かります。
        by Looper (2009-04-02 18:16)
(4)前野紀一先生は「ためしてガッテン」に協力した。

以上のことを考え合わせると、これもニセ科学ですよね。

最後まできちんと読みましょう

Posted by apj at Jun 14, 2009 12:47 AM
やすさん、

NHKの、氷を早く作る方法としての紹介はニセ科学でしょう。ノウハウとして使えるような状態でもないのにやっちゃったわけですから。

>(1)『「湯と水くらべ」のサイエンス』という題名に科学であるかのような錯覚を起こさせてしまう恐れが有る。

 これからサイエンスとして研究しましょう、という話なので、この題名でもおかしくないです。

>(2)実験をしている

 お試し実験であり、引用した談話室記事の最後には、

>確率現象の過冷却を重要視する立場では,湯と水くらべのサイエンスの本質を見逃してしまう危険性がある.サイエンスとしての課題は,0℃になるまでの冷却メカニズムの解明,および0℃になった後たとえ過冷却になったとしてもそれが破れ凍結が進行し全体の凍結が終了するまでのメカニズムの解明である.前者は,前に述べた,凍る判定基準のA)に対応し,後者はB)に対応する.湯が水より早く凍る現象の報告は多数あるが,サイエンスとしての研究はまだ始まったばかりの状態である.これまでの多数の報告を超えて質的に新しい研究となるためには,研究計画は,網羅的,系統的,かつ厳密でなければならない.そのような研究プロジェクトが組織されることを期待したい.

とあります。関連する分野の専門家に対し、研究テーマになりそうなネタがありますよ、という紹介であることがはっきりわかります。

>(3)物理の知識が有るきくちさんは未科学であることを見抜いたが、一般の人には無理である。事実Looperさんはこれを「科学である」と認識している。

 雪氷学会誌については、そもそも学会誌の談話室なので、読むのはプロか、それなりに知識のある人を想定しています。普通の研究者なら、既に確立した話だと受け止めることはない書き方になっています。
 今回は、継続調査にしていたし、blogでも取り上げたので、記事が出たとき紹介しました。

>(4)前野紀一先生は「ためしてガッテン」に協力した。

 協力した経緯は以下の通り。

>ところが今年5月になってNHKの番組ディレクターから7月9日放映予定の「ためしてガッテン」で氷をテーマにしたいが,その中のトピックスの一つとしてこの現象を取り上げたいと相談を受けた.私は即座に反対した.湯が水より早く凍るという現象は意外性があって面白いけれど,信頼できる測定や科学研究がほとんど行われていないことを知っていたからである.

>しかし,NHKスタッフが実際に実験してみると,確かに湯が水より早く凍り始めたり,早く凍り終わったりすることがあり,ふだんの生活の「なぜ?」「どうして?」についてユニークな実験でためしてみる,というこの番組の趣旨にピッタリとのこと.また,この番組は厳密な意味での科学番組ではないということなので,メカニズムについてはまだ精密な測定が行われていないと説明する,という条件で番組制作に協力することにした.

 番組が知識のない人にどう受け取られるかという配慮が足りなかったとは思います。ただ、ニセ科学に仕立て上げた真犯人はむしろNHKの方かもしれないので、ちょっと微妙ですが……。

 ということで、雪氷学会誌についてはニセ科学とは呼べないと考えます。変な現象があるらしいのでこれからきちんと調べましょう、という話題提供以上の意味はありませんから。これをニセ科学だとしてしまったら、専門誌で、不確かな情報を紹介し、こんな話があるのでさあみんな一緒に研究しませんか、と呼びかけることもできなくなります。
 同じ記事を、たとえば一般の方向けの雑誌に載せたりすると、誤解を広めそうなのでまずいと思います。しかし、学会誌はそもそも読者に専門家を想定している出版物ですので、内容の確かさについては引用されている論文をとりよせるなどして、自分で判断するのが当たり前です。それができず、談話室の記事を見て既に確立した話だと思い込むような人は、研究者失格です。そういう読み方ができない人が、ソースが学会誌の談話室記事なのに真に受けたとしても、そこまでは面倒見切れません。

断定的判断提供=不実告知

Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 08:39 AM
こんにちは、やすさん。少し法律運用の話をしますね。

言葉により嘘を付くことを法律的には「不実告知」なんて言ったりします。特定商取引法とかで販売者に罰則(最高懲役2年)付きで禁止されている行為だったりします。でもって、この不実告知の運用の中に「断定的判断の提供」というのが含まれます。これは、「そうなるかも知れないがならないかも知れない」という事柄に対して「こうなります」と告げる行為です。例えば、変動する配当の商品で、「銀行からお金を借りて投資しても充分儲かります」なんてのがそれにあたります。配当が銀行の貸し付け金利より高水準で推移すればこれは嘘にはなりませんが、配当が銀行の金利を下回れば嘘になりますね。このように、「不確かなこと」を確かであるように告げる行為が「断定的判断の提供」とされ、不実告知の一つとして扱われる訳です。

>じゃあNHKの「ためしてガッテン」は確実にニセ科学ですね。

そう、NHKが「氷を早く作る裏技」として紹介した段階で、NHKは「断定的判断の提供」という悪逆非道な不実告知という大罪を犯した訳です(笑)。

ただ、ムペンバ効果そのものは、幾つかの条件が偶然重なり合うと「起きても不思議ではない」程度の事ではあります。そういう意味では未科学なのですが、その未科学を「確実に起こる」かのように伝える行為がニセ科学となってしまう訳です。

幅が狭くなりませんように。。。

Posted by やす at Jun 16, 2009 09:42 AM
こんにちは、技術開発者さん。

解説ありがとうございます。

ムペンバ効果をめぐる様々な状況を考え合わせると、論や主張そのものよりも、それらの提示の仕方が問題になってくる訳ですね。「ためしてガッテン」は「時々起こる不思議な現象」として紹介していれば問題はなかったし、前野紀一先生の記事も一般紙に掲載されれば問題になる、ということですね。

これは
Posted by 技術開発者 at Jun 16, 2009 08:39 AM への返事です。

社会規範に言及しても個別の批判は変わらない

Posted by apj at Jun 12, 2009 10:47 PM
追加です。

>それよりも、apjさんが最近提案なさっている「ニセ科学批判は存在しない」という議論をもっと押し進めていけばより効果的なんじゃないでしょうか。つまり、一般化を避ける方向に議論を持っていけば、個々の事例でのニセ科学の不正さ、理不尽さ、被害の深刻さが浮き彫りになるんではないかと、私なんかは思ってしまうのですが。

 社会規範の議論をきちんとすることにしても、個別のニセ科学を問題にするということを止めるわけではありません。これまで通り、自称「批判批判者」が主張するような括りができないという議論に変更はありません。個別問題への対応の際に社会規範の話を敢えて持ち出す必要もありません。
 私がやりたいことは、これまでにしてきたことに加えて、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範による部分をはっきりさせておきたいということなんです。

 科学としての正しさの部分は、科学の進歩に応じて徐々にかわりますが、あまり、人間の社会における価値判断の影響は受けないと思います。しかし、ニセ科学を問題にすることの「正しさ」は、科学としての正しさのみで支えることはできず、規範としての「正しさ」もないと、支えきれないと思うんです。規範というのは人が決めるものですから、価値判断を含みますし、時代と共に無くなったり効力を失ったりすることもあるわけです。規範を維持するには、不断の考察と努力が必要なんです。
 科学は人にとって何が価値あることかを決めるものではない、というのは、既にあちこちでいろんな人が主張していますし、私も言ってきました。ニセ科学を問題にするときは、どうしても、現実の科学からの乖離を具体的に問題にしないと話がそもそも始まらないため、科学が常に全面に出てくることになります。また、科学そのものを考える時には、敢えて「何が価値あることかを考える」ことは切り離す習慣になっています。これらのことに引きずられた結果、ニセ科学を問題にするときに、人が決めた価値や理念を持ち込まないという傾向が相当強まっているように私には見えます。また、そう思っている人も数多く居るのではないでしょうか。
 ところが、これは見かけに過ぎなかった。ニセ科学を問題にすることが、科学としての正しさだけで何とかできることのように見えていただけで、最初から、社会規範の存在を暗黙のうちに含んでいたのだろう、というのが私の理解です。ですから、暗黙のうちに含んでいた部分を明文ではっきり書いて考えよう、という方向で進もうとしているのです。

m(__)m

Posted by かとう at Jun 18, 2009 10:49 AM
「嘘はよくない」で十分ではないか。という意見は撤回します。

そもそも、議題になっている文章の位置づけを誤読していました。
「はじめに」「ニセ科学判定ガイドライン」を読んで、
1. ここにある一連の文章は、独立したものである。
2. マルチ商法に嵌った親戚がいる等の、ニセ科学に困った人が、どうすればいいかの指針を得る為の最小限のアドバイスである。
3. 2.のあと、各個人が、自分の間近に迫っている個別のニセ科学への対応を、上記方針に沿いながら、個別に対応できる文献等
を探せる。
と言う位置づけ(読者層、目的)だと思ってました。

独立した文章を評価する場合、同作者の他の文章を読まない方がいいので、(該当本文には書いてないが、普段別の所に
書いてある文章を読んでいた為、本文のみ読む読者には理解出来ない部分を、脳内で補完して理解してしまうから。)
ここしか読まないように気をつけていました。

しかし、議題になっている文章は、「ニセ科学判定ガイドライン」とは同じ階層にあるけど読者層の想定がそもそも違って、
水商売ウォッチング、書くことは考えること等を読んで、それにケチをつけたい、「ニセ科学批判批判」に対する対抗言論
としての文章で、読者はそれらを熟読している人って事ですね。
そうであれば、読者層が違う為(1.2.3.で想定しているのは科学的リテラシが足りない人へ、その概要を見せる事で、
ニセに引っかからない様にする目的であり、学問的レベルがあまり高くない人が読者層として想定されている。今回の議題は、
科学的にもある程度かじっていて床屋談義の政談よりももうちょっとマシな事を言い出す人が読者層)、冒頭にあるように
撤回します。

「揚げ足を取ろうと虎視眈々と狙っている」人が読者層なんだから、アプリオリに社会規範があるかの様な論の立て方は、
最初に感じた以上に危険な気がします。

差し出がましいですが嘘の定義と範囲について

Posted by 摂津国人 at Jun 22, 2009 10:27 PM
 やっと私にも某所の議論の意味が理解できたような気がしています。

 「うそ」には幾つかの意味が考えられますがこの場合あえて分ければ
①嘘→不確かな情報=社会的(法的?)な意味(判断に影響を与える物)
②ウソ→操作された情報=心理学(?)的な意味(「つく」事が主体)
としているのでしょう。(他にも哲学的な意味の「うそ」等もあるでしょう)
 
 あちらでは①と②の両方の意味を「うそ」として、apjさんは①の意味とし、表現された行為しか「社会」的には(法的にも?)存在しないとする立場にあるのでしょう。(「ニセ科学」を問題にする言論と規範の話だから①だけでよいと思うのですが・・・)

 ですから①の意味で”「嘘は」「(ついては)いけない」という「社会規範」がある”とすれば問題なく(「見える」違反があった場合にはペナルティが有りえるという意味)。
 逆に②の意味を中心に”「ウソ」は「いけない」という社会「規範」がある”とすれば規範(社会)が心理(内心?)に対しても不可能な要求している物と捉える事ができ「不確かだ」と言えてしまうので無いでしょうか。

 心理学の側にも嘘や騙しに関する言葉の使い方には積み重ねが有り、そちらの方が違和感を感じるのもやむを得ないと思う部分もあります。
 その辺りに対する無駄な誤解を招かないようにする文言の追加してもよいと思いますがどうでしょう。

※心理学の側の嘘について述べてある物を見つけました。
 「発達科学・発達心理学を考える」より”嘘の発達について考える②”(①もあります)
ttp://blog.livedoor.jp/gccpu/archives/878110.html
※本もいろいろ出ている様で重要な概念とされていることがわかります。
「嘘とだましの心理学―戦略的なだましからあたたかい嘘まで 」有斐閣
「うそつき―うそと自己欺まんの心理学」草思社

Re:表面化し(伝わら)ない嘘は勿論指摘もできません、指摘のインパクトの強さは嘘の強さに比例するはずです

Posted by apj at Jun 12, 2009 05:47 PM
摂津国人さん、
 お返事なのですが、このコメント欄の仕様として、コメントをつけていくとだんだん幅が狭くなるので、こっちに移動しますね。

> 例えどう見ても嘘であったとしても「言論」に「社会規範」を持ち込むと「イデオロギー(又は「政治」)」に踏み込むリスクは有ると思います。私は事実以外にまで議論を拡げる事が良いとは思えません(例えば宗教を想定)。

 「科学を装うが科学でない」という限定をつけていますので、そうそう無制限に広がる話ではありません。宗教までは広がらないでしょう。また、事実とおっしゃいましたが、社会規範の存在だって「事実」です。

> 規範に基づき「言論」を非難する事は、発話者が嘘であると認めない限り規範が価値観(内心の自由)に踏み込むと言えないでしょうか。

 言えないと思います。他人に向かって表現する行為に対する非難が起きたからといって、非難された人が信じることを変える理由にはなりません。他人に向かって表現したことが被害発生に結びつきますが、一方、内心でその人が何を信じていようが、他人に被害を発生させることは無いでしょう。信じることと表現することは分けて考えるしかないと思います。

> 「規範」は関係と文脈に基づく物だと考えます。詐欺や差別などの実害が見える物以外の場合(社会の合意が得られない事もある)には寧ろ適用のハードルは高くなると思いますがどうでしょう。下手をすると空回りしないでしょうか?。

 上手にやれば良いわけで。
 また、社会の合意が得られない場合とは具体的にどんな場合でしょうか。空回りと言われても、具体例がないと何とも言えません。

> 可能だとすれば「科学界?」が有る程度揃って「これは嘘だ」と積極的に発言する位しか考え付きません。

 これは、違うレイヤーの話ですよね。
 私が今回問題にしているのは、個別の批判の際に非難が足りなかったということ、これまでのニセ科学の取り上げ方は、科学ばっかりで、規範意識の部分が抜け落ちていたということの指摘なので、科学界云々はとりあえず関係が無いです。それは別の話。

> 個人や特定の集団が「非難」をしても効果は限定的でしょうし、法律に違反しない言論を公的に非難するのは考え難いです。

 同じ事が「批判」についても言えます。また、公的に非難も公的に批判も無いわけで、これまで行われてきたのは公的でない議論です。
     
>「馬鹿につける薬」は無いはずです。一人を説得するために社会全体を説得するのは、より困難だと思います。
 既に存在する規範に対して、関連づけようという話なので、社会全体を説得する必要はありません。

> 出来れば大きく取り上げられ、社会問題として理解されたい所ですが、指しあたっては地道な批判(非難)が最良だと考えます。
 別に、地道な批判や非難をやめろと言っているわけではありません。むしろ今後も継続することになるでしょう。ただ、その際の議論が、あまりにも「科学のみ」に偏っていると別の誤解やイチャモンを呼び込むことになるという話です。

> これは上でも「嘘」と一般化した様に、気がついた嘘を指摘する権利は誰でもありますからその「反論」は無意味でしょう。

 それがわかる相手なら、最初からそういう主張はしません。それが分からない相手が出てきて、無意味な反論に引きずられそうな「空気」にも同時にクギを刺しておく必要はあると考えます。

>「権威」を感じるのはその方の弱さでしかないと思います。批判も反論も属人のみで議論をするのは駄目でしょう、反論と言うより唯の印象操作です。

 この考え方があてはまる事例もたくさんあるのですが、この考え方だけでは足りないと思います。

 もっとあからさまに言ってしまえば、もし、社会の側が「インチキでも騙しでもOKで、嘘をつくことは何もわるいことではない。騙される側がただのアホだというだけなので、そういうのは自己責任でどうにかすればよい」という規範を持つことになったら、その社会ではニセ科学を問題にする必要は無くなるでしょう。少なくとも、社会にとって、ニセ科学のどこがニセかなどと議論する意味は何もないことになるし、事によったら、ニセをニセと指摘する行為の方が規範に違反したといって非難されることになるかもしれません。まあ、社会がそうなったとしても、自然科学は人の社会とは関係のない自然現象扱うものなので、単独でより精度の高いものになるように発展させることは可能でしょう。
 じゃあ、なぜこれまで、ニセ科学を問題にすること自体が社会的に非難に値する、とされていないのかと考えると、嘘をつくな、といった社会規範の存在を意識することになるわけです。「ニセ科学が問題だ」と主張した場合、自称「批判批判者」やニセ科学信者や詐欺師以外から、社会的非難を受けずに済む理由は、それが科学だからという理由だけじゃないんですよ。

 結局、なぜニセ科学を問題にしても非難されずに済んでいるのか、ということを考えると、何に拠って立っているのかということにいきつくのです。これを、「科学だから」ということだけで終わらせるのは一種の思考停止だと思います。もちろん、科学的正しさに依拠していることは確かですが、他に依拠しているものがあるのに、意識しないことにするとか考えないことにする、というのは、逆に混乱すると思います。

議論というより材料だと思って書いていますので

Posted by 摂津国人 at Jun 14, 2009 01:20 AM
apjさん、わざわざお返事いただき有難うございます。

 まず私は最初に≫「社会規範」がそれぞれの価値観の合意によって成り立つとすれば、「社会規範」は証明できる物と言うより社会に問いかけ確認する物になるはずです。
 と書いた通り、社会規範は「主として」「合意」で「成り立つ」物であると言う立場で後の話は書いたわけです。
 >社会規範の存在だって「事実」です。>既に存在する規範
と書かれているようにapjさんは「主として」社会規範は「ルール」として「存在する」という立場であるのかとも思います。
 ニュアンスの違う話である事をご理解ください。

 「嘘をつくな、といった社会規範」は「有るだろうがどんな形かがまだ整理ができていない」状況だとの前提で書いています。

 日本神話でも日本武尊やアメノウズメ等の嘘が、いけない事と描かれてないように「嘘をつくな、といった社会規範」については「『仲間に対して』『損害を与える』嘘をつくな、といった規範」があると言う点では多くの方が同意をされると思いますが、それは「『仲間に対して』『損害を与える』な、といった規範」という意味でも通り、それだと「嘘をつくな」が主ではない事になります。
 多くの詐欺師も身内や仲間への嘘はそれなりに否定的に感じているはずです。「カモ」だから嘘をついても良いと考えているはずです。
 それだと自分や身内が被害にあわない限り嘘と規範は両立できてしまいます。

>非難された人が信じることを変える理由にはなりません。

 『規範に基づき「言論」を非難する事』が「正しさ」を背負うとすれば社会規範が「思想」の正否を判断する事にはならないでしょうか(上でのapjさんの>内心の自由との切り分け<に対応する形で書いています)。

>また、社会の合意が得られない場合とは具体的にどんな場合でしょうか。空回りと言われても、具体例がないと何とも言えません。

 科学がらみの嘘だと血液型性格判断や食品の安全云々はニセ科学のほうが現在は強いですし。養老氏茂木氏福岡氏などは被害が見えないので社会の合意が得られ難いでしょう(船井氏もかな)。
 
>「科学を装うが科学でない」という限定をつけていますので、そうそう無制限に広がる話ではありません。
>これまでのニセ科学の取り上げ方は、科学ばっかりで、規範意識の部分が抜け落ちていたということの指摘なので 

 この辺りは意味がつかめませんでした。科学だけなのかそうでないのかが良くわかりません。
 「嘘をつくな、といった社会規範」はニセ科学だけに限定されると言う事になるのでしょうか?それだと「社会規範」とは云わないのではないでしょうか。。
 上でも「科学以外のことまで正当化するな、といった反論が出てきた」と書かれていますがどこまでが含まれるのでしょう。
 
>じゃあ、なぜこれまで、ニセ科学を問題にすること自体が社会的に非難に値する、とされていないのかと考えると、嘘をつくな、といった社会規範の存在を意識することになるわけです。「ニセ科学が問題だ」と主張した場合、自称「批判批判者」やニセ科学信者や詐欺師以外から、社会的非難を受けずに済む理由は、それが科学だからという理由だけじゃないんですよ。

>結局、なぜニセ科学を問題にしても非難されずに済んでいるのか、ということを考えると、何に拠って立っているのかということにいきつくのです。これを、「科学だから」ということだけで終わらせるのは一種の思考停止だと思います。もちろん、科学的正しさに依拠していることは確かですが、他に依拠しているものがあるのに、意識しないことにするとか考えないことにする、というのは、逆に混乱すると思います。

 こちらも私見で申し上げているように 「非難に値する、とされていないのか」「何に拠って立っているのか」は「科学」ではなく「(何らかの理由で)嘘を嘘だと認識できる(から)」(所謂”真実・事実”とか”道理”)でも 問題は無いと思います「規範」である必要はよくわかりません。「科学的正しさ」は「何らかの理由」の一つでしかありません。
 寧ろ「社会規範」を出す事によって「ニセ科学批判批判」の側の土俵(政治)に乗っているように感じます。

>無意味な反論に引きずられそうな「空気」にも同時にクギを刺しておく必要はあると考えます。

 これを”「ニセ科学」批判”に組み込むことが私には「政治的」な印象を与えてしまうのではないかと感じています。別枠でも問題ないと思います。

 少し違う話かもしれませんが、「嘘つき」は「嘘をついても良い」と言う社会規範を認める事は有りません。「嘘をついても良い」社会においては嘘をつく価値が無くなるので、嘘つきにしてみれば「嘘の少ない社会」こそが嘘をつくことの効果を最大限が発揮出きる好ましい状況であるはずです。

 apjさんが今回仰っている事はご自身の「信念・理念」としては充分理解できます。

 私個人は「規範」自体の問題というよりも近年の「規範」の自己への当てはめ方が特に恣意的になっている事が(オイシイとこ取り)違和感を感じます。ダブルスタンダードが強者には許される風潮が引っかかっています(説教好きのエライさんほど胡散臭い)。

何て言うかずれている気がするが、何故だろう?

Posted by apj at Jun 14, 2009 03:48 AM
摂津国人さん、

> 『規範に基づき「言論」を非難する事』が「正しさ」を背負うとすれば社会規範が「思想」の正否を判断する事にはならないでしょうか(上でのapjさんの>内心の自由との切り分け<に対応する形で書いています)。

 どんな思想でも、それを社会に向かって表明すれば、批判にさらされ、場合によっては非難され、正否を議論されたり判断されたりするものです。摂津国人さんが何に引っ掛かっているのか理解不能です。思想自体ではなく、外に表現したことによって起きていることです。なぜ、内心の問題と、外に表現された結果起きる問題を混同しているのか、その方が不思議です。

 例えば、最近、京都教育大の集団強姦事件が報道されましたよね。で、mixiなどに、被害者や加害者の知人を名乗って、被害者を中傷する表現がいくつか書かれました。書いた人は強姦事件の加害者ではない、第三者ですし、事件についてどう考えるか意見表明するのは思想の自由の1形体ですが、見事に非難囂々となりましたね。表現した思想が規範によって正否を判断された典型的な例でしょう。

>「嘘をつくな、といった社会規範」は「有るだろうがどんな形かがまだ整理ができていない」状況だとの前提で書いています。

 私は、ある程度整理できているという前提で書いています。整理できていることの根拠は、現行法の状況などを列挙し、既に具体的に示しました。

>それは「『仲間に対して』『損害を与える』な、といった規範」という意味でも通り、それだと「嘘をつくな」が主ではない事になります。

『仲間に対して』を、個人が主観で勝手に決める範囲、としてしまうから話がおかしくなるのでは。

>>非難された人が信じることを変える理由にはなりません。

> 『規範に基づき「言論」を非難する事』が「正しさ」を背負うとすれば社会規範が「思想」の正否を判断する事にはならないでしょうか

 反論になっていませんよね。社会規範が「思想」の正否を判断したとして、その人が内心で信じることを変えるかどうかについて、この反論からは何も導き出せませんよね。

> 科学がらみの嘘だと血液型性格判断や食品の安全云々はニセ科学のほうが現在は強いですし。養老氏茂木氏福岡氏などは被害が見えないので社会の合意が得られ難いでしょう(船井氏もかな)。

 これも、反論になっていませんよね。
 ニセ科学の方が強いことが、規範を考えるのを止めねばならない理由にはなっていません。差別をするなといった別の規範にもひっかかりそうですが、そのこととニセ科学が十分結びついていない、つまり想像力不足が原因ということもあるわけです。

> 「嘘をつくな、といった社会規範」はニセ科学だけに限定されると言う事になるのでしょうか?それだと「社会規範」とは云わないのではないでしょうか。。

 違います。
 「嘘をつくな」と規範はニセ科学とは別に存在すします。ニセ科学を問題にしたことによって、この規範そのものが意味する範囲が広がるということはないし、ニセ科学以外の問題にこの規範を適用することがニセ科学を理由として行われることもない、という意味です。

> 上でも「科学以外のことまで正当化するな、といった反論が出てきた」と書かれていますがどこまでが含まれるのでしょう。

 どこまで含んでいるかの議論は、実はまだ十分詰められていないように思います。この手の反論が、苦し紛れの言いがかりで実は内容を含んでいなかったこともあります。ニセ科学を問題にする側が規範の部分について議論してこなかったために、「批判批判」側が目標を捉え損なっている面もあると思います。この手の議論が出たときに、「それは科学とは独立に存在する規範で、ニセ科学を問題にするときはその規範を再確認しているだけだ」とはっきり指摘するような議論の展開はこれまでにあまり無かったと思うので、議論の交通整理に失敗した面も否定できません。
 今回、規範の話をきちんと入れた形でまとめたので、自称「批判批判」側にとっても、科学以外の部分として何を対象にすべきか、少しはわかりやすくなったかもしれません。

>「(何らかの理由で)嘘を嘘だと認識できる(から)」(所謂”真実・事実”とか”道理”)でも 問題は無いと思います「規範」である必要はよくわかりません。「科学的正しさ」は「何らかの理由」の一つでしかありません。

 認識できたからといって、指摘することが正しいかどうかは別ですよね。指摘することが社会的に悪、とされない理由をどう考えるのかが、この反論からは出てきません。
 最初から、規範の部分も含んでいたのだけど、敢えて無視してきたのだろうというのが私の指摘です。

 規範として、「嘘をつくことが是」になった場合ニセ科学を問題にする意味は無くなるので、ニセ科学を問題だとする判断には最初から「嘘をつくな」という規範が含まれているだろう、というのが私の主張です。これについての反論はありませんよね。

> 寧ろ「社会規範」を出す事によって「ニセ科学批判批判」の側の土俵(政治)に乗っているように感じます。

 「社会規範」をきちんと議論しておかなかったから、「ニセ科学批判批判」のような、わけのわからない反論が出てくる結果になった面があると思うんですけど。

> これを”「ニセ科学」批判”に組み込むことが私には「政治的」な印象を与えてしまうのではないかと感じています。別枠でも問題ないと思います。

 組み込んだわけじゃないです。そもそも別枠にはできない種類のものだろうと思うんですよ。最初から含まれていたのだろう(でも慣れないからか別の理由からか無視していたのでは)、というのが、ここ暫くの間の考察の結果なので。印象もなにも、もともと含まれていたのだから、気づいてしまったら向き合う以外にないだろうと思いますけど。

> 私個人は「規範」自体の問題というよりも近年の「規範」の自己への当てはめ方が特に恣意的になっている事が(オイシイとこ取り)違和感を感じます。ダブルスタンダードが強者には許される風潮が引っかかっています(説教好きのエライさんほど胡散臭い)。

 権利を制限するものは別の権利だ、と考えて、バランスを取る、ということであれば、必要悪の範囲で落ち着きそうに思います。技術開発者さんと大体同じ意見です。
 また、『「規範」の自己への当てはめ方が特に恣意的になっている』ことが問題なら、それをやっている人を直接批判すればいいのであって、懸念されるという理由で、私が規範の部分まで入れて考えようとしていることに異を唱えるというのは、理路が違うと思います。

バランスの崩れ

Posted by apj at Jun 14, 2009 03:57 AM
追加です。

 コメントを拝見して、何だか座りが悪いというかバランスが悪いなあ、と思ったのがこの部分

> 『規範に基づき「言論」を非難する事』が「正しさ」を背負うとすれば社会規範が「思想」の正否を判断する事にはならないでしょうか

です。

 実際に起きることは、「個人が規範に基づいて特定の言論を非難する」ということですよね。つまり、これだけだと何の強制力もないわけですよ。例えば、
 「変なことを書いて公表したら、非常識とか言われてあちこちのblogで突っ込みが書かれました」
ってのは、表現された思想の正否の判断のあり方としてもかなり軽いものですよね。原因と結果のバランスがとれている。
 一方、戦前の一時期みたいに、「ちょっと政府を批判したら(国家権力に)しょっ引かれました」となると、バランスがまったく取れていないわけで、こういうことが起きないように、現行の憲法は国家権力の発動を制限しているわけです。

 何だか、社会規範が「思想」の正否を判断すること、が、非常に重大なことのように思っておられる印象を受けたのですが、その部分の認識が私とかなりずれてると思いました。

ずれているのはずらして書いているからです。

Posted by 摂津国人 at Jun 14, 2009 11:04 PM
 apjさんのその感想自体は正しいです。

 今回の「規範」を取り入れた”「ニセ科学」批判”の話は”批判批判”の「言いがかり」に対応するためだと理解しています。
 ですので”批判批判者”(私は相対主義者や反権威主義者だと思っている)とその言説に迷わされる人に対して示そうとしている物だとすれば、対象とされている人に効力がある事が重要だと考えます。
 
 その場合有る程度相手側の「前提」を認めないと対話が成り立たないと思います。
 apjさんの論はご自身の「前提」がそのまま相手に通じる物である事が当然だとして語ろうとされているように見えます。
 それは「主張」としては正しいと思いますが前提の違う相手に対しては今までと同じようにすれ違うはずです。

≫「社会規範」がそれぞれの価値観の合意によって成り立つとすれば
≫材料だと思って≫ ニュアンスの違う話

 と「この流れ」では書いた通り”批判批判者”を想定して今回はその側から出てくるであろう反論の可能性を「材料」として並べたわけです。
 その点を抜きにしたままで「こちら側」の前提のみで考えると「ずれ」が有るままでの意見を闘わせるだけではないかと思うわけです。

○ここから「あちら側」の立場で書きます(少し乱暴に書きますがご容赦ください)。
>正否を議論されたり判断されたりする
>現行法の状況などを列挙し、既に具体的に示しました。
>社会規範が「思想」の正否を判断したとして、その人が内心で信じることを変えるかどうか

 のだとすれば法律に引っかかっていない物を「規範」で問うのは「権威」の濫用ではないか(強姦事件は違法行為の話、詐欺も嘘は構成要素の一つでしかない)。「害を侵した」が法の状況で、自覚された嘘が悪意を持って用いられない限り例外と見られるはずだ。
 「ニセ科学」で逮捕された人はおらず、詐欺や医師法違反など犯罪の道具として使われただけである(自動車と同じ)、テロリストがいるからといってイスラム全体を非難するのと変わらないのではないか。「内心で信じることを変え」なければ良いのなら「間違った(とされる)」思想(例えば主体思想)を持つ事が非難されても良い事になるとすれば、言論抑圧を容認する物になるのではないか。

>個人が主観で勝手に決める範囲

 自社を規範の範囲としている新自由主義も認められているし、世界を範囲にすると外交も出来ない。個人が主観で判断するしかないでしょう。
 
>規範を考えるのを止めねばならない理由にはなっていません。

 社会が認めている以上「規範」として問題がないとされてしまっているのではないかともいえる。考えるのも自由だがその「規範」を認めないのも自由。

○以上「あちら側」おわり

> 「社会規範」をきちんと議論しておかなかったから、「ニセ科学批判批判」のような、わけのわからない反論が出てくる結果になった面があると思うんですけど。

>嘘をつくな」と規範はニセ科学とは別に存在すします。

 そのあたりが「規範」の捉え方として元々前提が違うのではないかと言うのが疑問で「規範は存在する」としても”どう存在するか”が対立点のように感じますが、その点の「ずれ」が埋まらないままにこちら側の「規範」を前提にして「座りの悪さ」を解消してもあちら側が座れるようになっていないと噛みあわないのではないかと思うわけです。

 こちら側(現場)の前提が自明なのは判りますがそれをあちら側(机上)にそのまま受け入れるべきだと言うのは今迄通り困難なのではないかと云うのが疑問です。上でも書きましたがあちら側は”ポストモダン”系の話なので現場とは相性が悪いのが普通だと思います。
 apjさんが「誰」に対して「規範」を用いようとされているのかが良くわかりません。こちら側には元々説明は不要ですし、あちら側との「ずれ」はこの説明では前提が違うので効果がわかりません。
 「アナタ方(あちら側)の社会規範がずれているんだよ」で解決するのでしょうか。
 「前提」を争うのは「主義」を争う事になると理解していますので、あちら側の土俵(政治)だと考えています。

> 認識できたからといって、指摘することが正しいかどうかは別ですよね。指摘することが社会的に悪、とされない理由をどう考えるのかが、この反論からは出てきません。

 ですから元々「悪、とされない理由」は別の話にしていて指摘内容の適正さが善悪の理由ではないかと申し上げているわけです。

> 規範として、「嘘をつくことが是」になった場合ニセ科学を問題にする意味は無くなるので、ニセ科学を問題だとする判断には最初から「嘘をつくな」という規範が含まれているだろう、というのが私の主張です。これについての反論はありませんよね。

 ありません。
 ただ上で申し上げたとおり嘘つきは「嘘をつくことが是」とは言わないはずです。ニセ科学派が嘘だと認めない限り「嘘をつくな」はこちら側にしか意味を持たないはずです。「いくらあなたの言う”科学的”に説明されても納得できない」といえば彼の発言は内心の問題としては「嘘」では無いという事になりませんか(詐欺罪も故意の認定が必要でしたよね)。

> 実際に起きることは、「個人が規範に基づいて特定の言論を非難する」ということですよね。つまり、これだけだと何の強制力もないわけですよ。

 これは今されている事と何も変わらないと言う事でしょうか、だとすると「社会規範」を持ち込む意味がよくわかりません。
 それとも(違うとは思いますが)「規範」に基づいて名誉毀損や業務妨害すれすれまでは「非難」を行うと言う事でしょうか。

 最後の≫私個人≪以降は本論とは違う別の話ですのでご理解ください。

 私も今回のapjさんの試みに反対なわけではないのですが、apjさんがまだ整理されていない部分が有るのではないかと思いあえて「材料」として異論を書かせていただいています。
 
 apjさんが考えられている「社会規範」で「ずれ」が有る程度でも解消された場合は私の意見が杞憂だったという事になります。

議論してみます

Posted by apj at Jun 15, 2009 03:20 AM
摂津国人さん、

 ずらすのはいいんですが、教科書レベルも踏まえていないものを出してこられても、不勉強でしょうとしか言いようがなくなってしまいます。が、まあそのレベルの反論が出てくることもあると思うので、答えをかいてみます。

>法律に引っかかっていない物を「規範」で問うのは「権威」の濫用ではないか

 違います。
 社会規範といったときには、法規範、道徳規範、慣習規範、宗教規範などいろいろなものがあります。それぞれ、完全に一致はしませんが、共通する価値判断を含んでいたりします。ニセ科学で問題にする「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」は、それぞれの規範に一応共通して含まれていると考えて良いでしょう。「法規範」を例にして「嘘をつくな」が規範として存在することを説明しましたが、「法規範」のみしか適用できないわけじゃないんです。

>「害を侵した」が法の状況で、自覚された嘘が悪意を持って用いられない限り例外と見られるはずだ。

 見られません。法に限って言うならば、民法709条の不法行為では「故意または過失によって」と書かれており、悪意の有無は関係ありません。
 法規範の適用がなくても、悪意は無いけど他人を騙して被害が発生したら、道義的責任は問われるでしょう。法的責任は問われなくても、周りの人から「次からあの人の話は眉にツバをつけて聞こう」「話半分と思うことにしよう」などと思われる、という「軽い」ペナルティはあり得ます。

>「ニセ科学」で逮捕された人はおらず、詐欺や医師法違反など犯罪の道具として使われただけである(自動車と同じ)

 違います。自動車は、事故を発生させたり被害を拡大させることもありますが、使うことによるメリットがあります。「ニセ科学」は、普通に使うメリットはなく、詐欺の道具以外に役立たないので、同列に並べることはできません。

>「内心で信じることを変え」なければ良いのなら「間違った(とされる)」思想(例えば主体思想)を持つ事が非難されても良い事になるとすれば、言論抑圧を容認する物になるのではないか。

 言論抑圧というのがよくわかりません。他人に意見を伝えたら、何らかの評価をされるのは当たり前で、それが非難であった場合に抑圧と呼ぶのは自由ですが、他人の言論に対して(非難も含めて)意見を述べる自由は別の人にもあります。抑圧的な意見を述べるなと主張するのは、他人の言論と表現の自由を侵害することになります。

> 自社を規範の範囲としている新自由主義も認められているし、世界を範囲にすると外交も出来ない。個人が主観で判断するしかないでしょう。

 そういうのは狭すぎるため規範としての一般性を持ち得ません。
 社会規範の中に、法規範、道徳規範、慣習規範、宗教規範などが含まれています。法規範について見れば、少なくとも日本の法が適用される範囲を考えることになります。道徳規範については、法規範とすりあわせようとするなら、範囲は多分同じでしょう。慣習規範はもう少し範囲が狭くなりそうです。慣習が社会の法的確信を伴うところまで至れば慣習法としての地位を獲得しますし、そこまで至らなければ任意規定と異なる慣習、とされます。これが通用するのは、強行規定が無い場合に限られます。宗教規範は特定の宗教を信仰する人々が範囲となるでしょうから、これも主観で勝手に仲良しグループだけで範囲を決めるというわけにはいきません。
 より広い範囲で通用する規範があって、そこで特に何も言ってないものについては、自分のお友達グループのみに通用する規範を主張することができる、という、階層構造になっていると考えるしかありません。

 なお、「我が社の慣習はこうです」と重役がごり押ししてたら立派に商法違反だった、なんてのもあるわけで、主観の範囲で規範が通用する範囲を決めて、より適用範囲の広い規範にひかかってると、結局は是正せざるを得なくなります(それがイヤならこの社会を出て行くしかない)。

> 社会が認めている以上「規範」として問題がないとされてしまっているのではないかともいえる。考えるのも自由だがその「規範」を認めないのも自由。

 順番が違いますよね。
 既に書いたように、「嘘をつくな」という規範は今のところ維持されているわけです。ところが、ニセ科学についてはなぜかその規範が結びついていることが意識されていないらしい(そのように見える)。だからといって、ニセ科学が流行っていることを理由として「嘘をつくな」という規範の方を否定することはできません。

 規範に対抗するものは別の規範以外には無いので、規範以外のもの(たとえば事実)を持ってきてもダメなんですよ(これは規範の議論をするときの、教科書的な意味での常識ではないかと)。

 どう存在するか、という話は、すでに技術開発者さんがやっています。群れにとって都合が良いかとか、群れの範囲が広がった場合にどうするか、といった観点から説明しようとしています。これは、実はかなり「現場」の議論なんですよ。だから、メタな議論でどうにかしようとする人にとっては都合が悪いんですよね。
 科学の部分は、個別具体的に現場の話としてやってきたので、規範の方も現場の話に落とし込んでおいてもいいのではないかと。

> apjさんが「誰」に対して「規範」を用いようとされているのかが良くわかりません。こちら側には元々説明は不要ですし、あちら側との「ずれ」はこの説明では前提が違うので効果がわかりません。

 こちら側、というか、ニセ科学が蔓延することが問題だと考えて議論した人達の多くが、故意にか無意識にか、規範の部分に関する話をこれまで軽んじてきたことは事実だと思います。ですから、こちら側に元々説明は不要、とは思っていません。
 あちら側がずれるのは仕方ないでしょう。それでも「科学として間違っている」だけではなくて「規範としての正しさもなく、非難されること」だと両方主張した方が、話がはっきりすると思います。

>ですから元々「悪、とされない理由」は別の話にしていて指摘内容の適正さが善悪の理由ではないかと申し上げているわけです。

 本来別の話にはできないだろう、というのが私の主張です。
・事実として正しいこと
・規範として正しいこと
は確かに別ですが、ニセ科学をニセと指摘することがこの社会で「正しい」とされるならば、両方同時に含んでいると考えるしかないだろう、ということです。

>「いくらあなたの言う”科学的”に説明されても納得できない」といえば彼の発言は内心の問題としては「嘘」では無いという事になりませんか(詐欺罪も故意の認定が必要でしたよね)。

 これで済むのは、現実の被害が何も無い場合だけでしょうね。
 被害が発生すれば故意過失は問わずに責任を負わなければならないので。また、いくら信じていても、不実証広告規制のような形で強制的に責任を負わされる場合もあります(客観性のありかたを強制する形になっています)。

> これは今されている事と何も変わらないと言う事でしょうか、だとすると「社会規範」を持ち込む意味がよくわかりません。
> それとも(違うとは思いますが)「規範」に基づいて名誉毀損や業務妨害すれすれまでは「非難」を行うと言う事でしょうか。

 ニセ科学を広める行為が、ただ単に科学として正しくない(事実としての正しさを持ち得ない)というだけではなくて、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範にも反している(規範としての正しさも持ち得ない)と明記しようということです。議論の展開によっては規範の方も説明することになると思います。

 科学以外のことを強制するなといった議論を整理する、つまり、ニセ科学だと指摘されたことで科学的事実以上の何かを強制されたように思っている人達が、本当に攻撃しなければならない目標が何であるかはっきり提示しようということです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ニセ科学をニセと指摘することは、事実として正しいだけではなくて規範としても正しい。だから、科学以外のことを「正当化」されたり「押しつけ」られたりするように感じるとしたら、それは既に存在する社会規範によるものである。その社会規範規範は、科学とは別に確立していて、具体的な内容は「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった程度のものである。ニセ科学をニセと指摘する時は、科学的正しさ以外に暗黙のうちにこれらの規範にも拠っているが、科学としての正しさでもってこれらの規範を変えたり補強したりしていることはなく、あくまでも既存の規範を再確認しつつ拠り所としているに過ぎない。従って、科学的正しさ以外の部分についてクレームをつけるのであれば、その論が、例示した社会規範の例外であることを積極的に示すか、あるいは、別の規範を立てることによって例示した社会規範を否定するかのいずれかを行うしかない。特定個人が科学的正しさを担保することがないのと同様に、特定個人が規範的正しさを担保することもないのだから、科学以外の部分についてのクレームを、ニセ科学を問題にした特定個人に向けるのはお門違いである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お騒がせしています

Posted by 摂津国人 at Jun 15, 2009 02:37 PM
apjさん、お忙しい中お付き合いいただき有難うございます。

 今回「嘘がある以上嘘を嘘だと指摘する行為も有る」に対して「内心の自由との切り分けが少し危うい気がします」「実際には、伝える行為しか問題にできないのに、規範の部分をはしょってうまくいくのか、というのが疑問なんです。」と仰ったのでapjさんは「規範の正当性に基づかずに(表現された)嘘を嘘だと指摘するのは内心の自由に踏み込む行為だ」「規範に基づけば伝える行為そのものを抑止出来る」「規範に反すると証明できればうまくいく」と考えておられるのかと思い流石にそれは「規範」に過大な要求をしているのではないかとの疑問を感じたわけです。

 特に『なぜ「嘘だと指摘する行為」には「危うい」とされている「内心の自由との切り分け」が規範には問題がないとされるのだろう?』と考えたわけです。

 それは「嘘をついてはいけないという社会規範」が有るから内心の自由に対しても関与できるという規範の優位についての御主張であるかと愚考したわけです(私は規範が内心に無くても規範に則った行動は出来ると考えています)。

>他人に意見を伝えたら、何らかの評価をされるのは当たり前で、
>他人の言論に対して(非難も含めて)意見を述べる自由は別の人にもあります。
>「規範としての正しさもなく、非難されること」だと両方主張した方が、話がはっきりすると思います。

 というお考えでしたらこちらも変わりません、理解しました。

 「批判者」側の前提(動機、根拠)として規範があるはずで、その批判を受け入れる側(批判される側と社会全体)の受け入れる根拠として規範があるべきと云う意味なら異論はありません。
 
>あちら側がずれるのは仕方ないでしょう。

 折込済みでしたら僭越でした。

>規範に対抗するものは別の規範以外には無いので、

 規範を装う嘘(カルト)は手ごわいと云うわけでしょうか。

>これで済むのは、現実の被害が何も無い場合だけでしょうね。
 
 この場合は「規範」抜きで指摘せざるを得ないでしょうか(ゲーム脳等)。

 「ずれ」の「あちら側」の言いがかりにまでお答えいただき恐縮しています。
 これ以上人格を疑われるのも困るのでその話は終わりにします。

ある意味意地の悪いことをしてるわけで(汗)

Posted by apj at Jun 15, 2009 07:25 PM
摂津国人さん、

 一応追加説明しておくと、ロジックとしては、

>「規範の正当性に基づかずに(表現された)嘘を嘘だと指摘するのは内心の自由に踏み込む行為だ」

は逆で、規範の正当性があろうが無かろうが、表現された内容に対する非難はどう行っても内心の自由には踏み込みようがなく、

>「規範に基づけば伝える行為そのものを抑止出来る」

は微妙に違ってて、規範に基づけば、伝える行為そのものに対する非難に対して正当性を付与できる、ということで、

>「規範に反すると証明できればうまくいく」

は、そこまで単純な話じゃないだろう、といったところです。

>私は規範が内心に無くても規範に則った行動は出来ると考えています

 この部分は同意見です。だから、批判をしてもあくまでもそれは外に現れた、ニセ科学を他人に伝えるという行動に対するものにしかならず、内心には手の触れようがない、ということになります。別に、ニセ科学に限ったことではなくて、内心の自由と、言論と表現の関係がそもそもそういうものなんですが。

> 「批判者」側の前提(動機、根拠)として規範があるはずで、その批判を受け入れる側(批判される側と社会全体)の受け入れる根拠として規範があるべきと云う意味なら異論はありません。

 そういう意味です。
 ですから、「批判の仕方批判」として、「科学以外のことにも正当性があると思っている」「上から目線だ」といったものが出てきた場合に、「それはあなたが受け入れるべき規範なんですよ」と「だめ押し」しましょうということです。
 ある意味、非常に意地の悪いことをやってるわけです。「科学的な正しさは認めるとしても、オマエのやり方が云々」「上から目線で押しつけがましい」という言い訳や逃げ道の方を、今度はきっちり断ってしまおうということになりますので。特定個人や数人の振る舞いが気に入らないとか、何人かがblogのコメント欄で似たような反論をする、ということに拒否反応を示し「科学教」等とレッテルを貼ろうとしても、「いや、受け入れて共有している(デタラメ言いふらすなという、ニセ科学に限らず通用する)社会規範が既にあるだけです」で却下ですし(実際にはもうちょっと説明をするでしょうけど)。
 摂津国人さんが作ってくださった、子供の屁理屈のような反論は、規範の議論をまともにやった場合には通用しないだろうと思います。私も、文系議論の作法はまだまだ勉強不足なんですが、法学をかじった限りでは、体験談だけ持ってきても科学として認められないのと同程度には通用しなさそうです。本気で規範を変えるなら、今ある規範を適用するとどんな不都合があって、新たに提案する規範はどんな利点があって……をきっちりやって、社会で、それを原則としていいよね、という合意を形成するプロセスを踏まないといけないので、時間も手間もかかるものでしょう。科学と違って予備知識が少なくて済むように見えているからといって、誰でも好きなことが言ってまともな議論になるかというと、ならないでしょうねぇ。

>規範を装う嘘(カルト)は手ごわいと云うわけでしょうか。

 ローカルな規範が、より一般性のある社会規範に真っ向から反していても、そのことを意識させないように洗脳するところが手強いし悪質でしょう。社会規範と宗教のあり方を摺り合わせることに成功したものは、いわゆる普通の宗教となって社会に根付いていますし。

> この場合は「規範」抜きで指摘せざるを得ないでしょうか(ゲーム脳等)。

「不確かなことを言いふらすな」と言ってもいいかもしれません。あと、提唱者に向かっては、「仕事の品質管理をしろ(製品未満の未完成品を世の中に出すな)」という非難もありかと。まあ、直接消費者被害を発生させるようなケースに比べるとインパクトは小さいですが……。

叱られているみたいな気もするので言い訳

Posted by 摂津国人 at Jun 15, 2009 10:02 PM
 apj さん
>一応追加説明しておく>とは逆で>は微妙に違ってて>は、そこまで単純な話じゃないだろう

 だから私は違和感を感じたわけです。

> 摂津国人さんが作ってくださった、子供の屁理屈のような反論は

 これは議論がメインではなく後の印象操作がメインなので議論はレッテル張りをするためにしているだけです(ご経験御有りだと思います)。

お気になさらないように……

Posted by apj at Jun 15, 2009 11:27 PM
摂津国人さん、

演習問題みたいなモンですし。

規範は別の理由で支えられているので……

Posted by apj at Jun 19, 2009 10:42 AM
やすさん、

>訂正文:ニセ科学を批判するときに、社会規範を根拠にすることが正当であるという証拠として役立ちますよ。

 これなんですが、技術開発者さんの考えたことが当たっていても居なくても、「正当である証拠」という話にはならないでしょう。
 ニセ科学が嘘をついていることは確かですし、「嘘をつくな」という規範が存在するということは、ニセ科学とは関係なく成り立つんです。ですから、技術開発者さんの考えがどうであれ、規範としての正当性は常に伴っているわけです。「嘘をつくな」という社会規範の方が無くならない限りにおいてですが。

 規範は、自然法則とは違います。何だか、やすさんの書かれたものを見ていると、規範と、自然法則やそれを見つけるに至る実験事実を同じに扱えると思っておられるのではないかという印象を受けました。科学に毒されているというか……。

 で、技術開発者さんの考えでは、

>でもって、事実に対処するためには、その事実が起こった要因を解析しなくては成らず、解析した結果として「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。

ということです。これは、個別のニセ科学を問題にするのとは少し違う場面で役立つように思います。ニセ科学が蔓延しないようにするための対策として、「科学的な言説でも無批判に受け入れないようにする」という風潮なり考え方なりをもっと強くすべきかどうか、ということを考えるときに、問題にする話でしょう。

 私は、技術開発者さんよりは少々悲観的というか、事は科学だけじゃないんだろうな、と思っています。科学だけじゃなく、法律や経済を含む全分野でリテラシーの不足が起きていて、マスコミなんかも間違ったことや誤解されそうな内容をを平気で垂れ流しているだろうと……。科学だと、実験事実との比較とか、シンプルにまとまった法則があるから、間違っているとそれなりに目立つんですけど、法律や経済になると、目立ちにくそうですし。

解析の内容によるのではないかな、と

Posted by やす at Jun 20, 2009 09:16 AM
>何だか、やすさんの書かれたものを見ていると、規範と、自然法則やそれを見つけるに至る実験事実を同じに扱えると思っておられるのではないかという印象を受けました。科学に毒されているというか……。

同じに扱えるとは思っておりませんが、社会科学の手法を使うことは少なくとも可能ではないかな、とは思っています。
ま、別にそのように扱う必要があるかどうかはまた別の話だと思いますが、とりあえず技術開発者さんによるニセ科学の解析の資料を待とうではありませんか。解析をした、と断言なさったのは技術開発者さんなのだし、せっかく解析されたのだからその資料が役に立つかどうかはともかく、検討する価値はあると思いますよ。自然科学者が社会現象をどのように解析するのかにも興味がありますし。

ジャンル違い

Posted by apj at Jun 29, 2009 11:12 AM
 解析=論理的思考で考えること、だと、議論による説明が全てなので、「解析資料」などというものの存在を想定すること自体が無意味でしょうね。で、延々「解析資料」にこだわっているのが、科学に毒されている、ってことでしょう。
 まあ、この手のジャンルの議論の参考になるとしたら、『「憲法上の権利」の作法』(小山剛著、向学社)でも読むのがいいかと。判例(事実)は引いてるけど、議論の方法や論証はそこに書かれていることのみで、確かに「解析」はしてるけど、「解析資料」はちょっと想定できないんですよねぇ。

???

Posted by やす at Jun 29, 2009 01:54 PM
apjさん、

>解析=論理的思考で考えること
これは、どこに載っている定義ですか?

また、どうして、『延々「解析資料」にこだわっているのが、科学に毒されている、ってこと』になるのでしょうか?

なにか、技術開発者さんの行ったニセ科学の解析の業績について、質問してはいけないような印象を受けましたが、もしそうだとしたらどうしてなのでしょうか。私にはさっぱりわかりません。やはりその有意義な業績を皆で分かち合うのが筋ではないでしょうか。apjさんがかってに個別のニセ科学の批判に役に立たないと断言してしまっては技術開発者さんに対して失礼だと思うのですけれど。

個別のニセ科学に対する批判に役立たなくても、科学リテラシーを向上させることができたら、個別批判との相乗効果も期待できると思うのですが。

説明してもわからないだろうということです

Posted by apj at Jun 29, 2009 06:12 PM
>>解析=論理的思考で考えること
>これは、どこに載っている定義ですか?

 こういうお子様な質問をした時点で、話が通じない相手と判断されることくらいは自覚して下さい。ある分野では標準的に使われている手法であるということで、その実例を実践して教えている本を示したのですから、それで十分でしょう。

>なにか、技術開発者さんの行ったニセ科学の解析の業績について、質問してはいけないような印象を受けましたが、もしそうだとしたらどうしてなのでしょうか。

 既に技術開発者さんが書かれていますが、あなたのイメージしているような「解析」とはモノが違うだろうと考えているからなんですよ。

>個別のニセ科学に対する批判に役立たなくても、科学リテラシーを向上させることができたら、個別批判との相乗効果も期待できると思うのですが。

 科学リテラシーの話以前に、物事をどう理解するかという組立の部分が薄っぺらすぎるとどうにもなりません。インスタント志向の見本というか……。
 「科学」なら、まだ、あなたの臨むような提示ができる部分も含まれているかもしれませんが……。

typo

Posted by apj at Jun 29, 2009 06:12 PM
×臨む
○望む
です。

我々の失敗

Posted by 技術開発者 at Jun 19, 2009 12:36 PM
こんにちは、apjさん。少し仕切直してみますね。

なんていうかな、勝手に我々にしてしまうのは申し訳ないけど、きくちさんやapjさん、こなみさん、後から参入した私などがニセ科学批判をはじめた頃に、我々には「社会問題である」という認識が共有されていたと思うんですね。なんていうか、「科学的ヨタ話が、市販商品やら会社の人事やら教育やらに広がるほど力を持ってきているのは問題だ」みたいな意識です。逆に言うなら、「ヨタ話が線香花火みたいにチョロっと出て消えてしまう」程度だったら、おそらくほとんどの人が、そんなものは無視して、自分の研究をやっていたのだろうという事です。批判するにしても個別にこじんまりやっていたんだろうと思うんですね。

例えばマイナスイオン商品を大手の家電メーカーが作ったりせずに、世の中の片隅で怪しげな健康器具屋が「マイナスイオンというものがあって」と嘘を言っている程度なら、悪徳商法批判者だった私とかが悪徳商法啓発系の掲示板で「本当にあるの?」と悩まれている相談者に「ヨタ話ですよ」とやっていたり、apjさんは自分の所に「この浄水器の説明は全然科学的な説明になっていない」と書いている程度で「ニセ科学」なんて言葉を出していく必要も無かったんだろうなんて思います。

ただ、我々にとって「社会問題」という意識はあまりに当然に共有されていたために、改めて議論もさほどしなかったという面はあると思っています。でもって、ここから本題になるのですが、我々は社会の意識について判断を誤ったのではないかという事です。社会問題という意識が我々の間であまりに簡単に共有されたために、社会にも共有されると判断してしまったのではないでしょうか?

現実の社会は「ヨタ話の蔓延」という事に慣れきっている面があって、「ヨタ話が蔓延してもなんら悪い事ではない」という意識になっているのではないでしょうか?

私は「平賀源内も罪なことをしたものだ」と土用丑の日のウナギの話をしたりします。夏の盛りにウナギを食べるのは悪いことでは無いけれど、特定の日に集中させるヨタ話を流布させた事で、ずいぶん流通的には無理が生じていますからね、できれば「盛夏だからウナギ」程度に広げておいてくれたら良いのになんてね。でも、ここのところ何十年か、こういう商業主義と結びついた根拠なんて無い話は増えましたよね、バレンタインデー、ホワイトデー、恵方巻き・・・。個々に何か被害があるとか言う話でもないし、それにより売り上げは伸びる(特定の日に向けてなので流通的には無理がかかるけど)訳ですけどね。

実際、これらの話の個々に問題があるという事ではなくて、そういう「風説の流布で売り上げが伸びるのはなんら問題がない」という意識が社会で当たり前になっていると言うことなんですね。そのため「マイナスイオンと謳って売り上げが伸びるならそれでよい」とされる訳で、大手家電は「次は何を流布しましょう」であり、消費者は「ヨタでも構わないから、面白そうなものを流布してね」と待ち受けているのでは無いでしょうか?

どうもこのあたりの社会意識を認識し間違えてきた気がします。

解析資料について

Posted by やす at Jun 27, 2009 04:46 AM
こんにちは、技術開発者さん。

ニセ科学の解析の資料を待っているんですけれど、早くしてくれませんか。よろしくお願いします。

やっぱり科学に毒されてますね

Posted by apj at Jun 29, 2009 11:15 AM
 技術開発者さんの議論の筋道そのものが解析の内容なんですが、それを読み取れずに延々、あなたの脳内で勝手に存在を仮定した「解析資料」を他人に求めるというのは、どうかと思います。

解析資料が存在しない?

Posted by やす at Jun 29, 2009 01:32 PM
こんにちは、技術開発者さん。

apjさんのおっしゃっていること、つまり、ニセ科学の解析の資料は存在しない、ということは本当ですか?
資料がないならない、となぜおっしゃってくださらないのですか?資料なしに、どのように解析したのですか?

何をもって解析というか

Posted by 技術開発者 at Jun 29, 2009 05:55 PM
こんにちは、やすさん。

>つまり、ニセ科学の解析の資料は存在しない、ということは本当ですか?

やすさんの思っている意味での解析資料はないかも知れませんね。例えばガリレオは「振り子の等時性」と「落下の同時性」を示しました。ニュートンは、「力学法則」を出すことで、「振り子の等時性」と「落下の同時性」を同時に説明することができる法則を出しました。では、ニュートンが、「振り子の等時性」と「落下の同時性」などのそれまでに明らかになっていた諸知見を「解析」して力学法則を導き出した「解析」を示してみてください。当然とこかにあるハズですよね、やすさんのお考え通りならね。

なんていうか、ニュートンの実験というのは傾斜路のボールの転がり速度の比較実験です。そしてその中で「加速度」という概念と「慣性」という概念を作り上げた訳です。そしてそれをそれまでも知られていた、「振り子の等時性」や「落下の同時性」に当てはめてみたらきちんと説明出来たというだけのことです。ではニュートンの解析とは何か、説明してみてください。

なんていうかな、解析はしましたよ、それこそ3年に渉っていろんな人といろんなニセ科学について膨大な議論をした訳です。それを全て示せと言うのなら、そんな手間のかかることはお断りです。単に「自分で考える気はない」というお子様を満足させるために、おそらく本にしたら数冊分になる議論をここで書いて示せと要求する権利が自分にあると思うのなら、その権利の証明をしてください。そうしたら数冊分になってもここに書くかもしれません。

私の方も同様です

Posted by apj at Jun 29, 2009 06:26 PM
 解析というのなら、このサイトに書いたニセ科学の定義から、社会規範についての考え方に至るまで全て、私の「解析」の結果です。
 しかし、あなたがイメージするような「解析」の「資料」は存在しません。存在するのは、あくまでも、水商売ウォッチングの個別の議論であり、blogでの個別の議論であり、今も学び続けている法学であり、これまでの判例や条文といったものの位置付けの集まりです。
 仮のまとめは出していますが、現実の状況や、私の理解の進展によってまた変わるかもしれません。それでも、どう考えるとうまくいくのかを考え続けているわけです。途中経過を利用してよりよい見方を提示できる人が現れるのなら、それはそれでいいことですし。
 しかし、同じ材料から出発して同じ結論に到達するには、同じだけの時間と手間をかけるしかありません。解析資料があって、それを見れば簡単に同じところに到達できるだろう、と安易に思っている人には、そもそも話が通じません。理解と検証と共有のプロセスがどういうものであるかを勘違いしているようにしか見えないんですよ。

 私や技術開発者さんの議論を共有すれば役立つというのなら、今提示されている内容を使って、現実に起きていることに当てはめてみて、使えるか使えないか、不具合があるならどう直せばいいか考えてみて下さい。それが検証するということであったり、理解したりするということです。また、主張のどこかが根本的に違うと考える場合には、別の論を立ててぶつけてみてください。

気になりました

Posted by やす at Jul 01, 2009 05:58 PM
つまり解析の資料は存在せず、その理由は、「解析」が実は「議論」であったということですね。
それではそのように最初から書いてくれるか、私が資料の提出を求めた時点で、資料の存在を否定してくれればよかったのです。別にこだわっていた訳ではありません。普通の人は「解析」と「議論」が同義だとは思いませんから、明らかに技術開発者さんの説明不足です。

社会科学の多くの分野では資料が使われています。ある特定の分野で資料の使われていない解析が行われていたとしても、それが「解析に伴う資料の存在を想起した」ことを非難する根拠にはなりません。

apjさんの論に従うと、「科学」以外の解析には資料を伴わないので、私が資料を求めたのは、私が「科学に毒されているから」である、ということですね。
対する技術開発者さんは、ニュートンの例を挙げ、「科学」であっても解析を示すことはできない、という立場ですね。(この「ニュートンの例」は必ずしも私の質問の答えになっていなくて、見当違いのようにもみえますが。)しかし、私はニュートンではないので解析資料を提示することはできませんが、当のニュートンはできるはずですよね。

ここで重要な問題があると思います。ひとつは言葉の使い方にあまりにも無神経であること。「解析」は、私の知る限り、「論理的思考で考えること」と同義ではありません。それについて質問したところ、「こういうお子様な質問をした時点で、話が通じない相手と判断されることくらいは自覚して下さい。」という返答が返ってきました。この返答はどうみても、「自分の主張を論理的に正当化することが出来ないので、相手を貶めることで相対的に自己を正当化しようとしている」ようにしか見えません。

もう一つは、誤りがあった場合に訂正せず、その誤りのために生じた誤読についての責任はすべて他者にあるとする態度です。これはある意味、「道を尋ねられて教え、後で違う道を教えた事に気が付いた時に『しまった、悪いことをした』と思わなくなっているのではないか」という技術開発者さんのたとえ話よりもっと悪質のように思えます。すなわち、「解析をしたと教え、後で解析ではなくただの議論だった事に気が付いた時に『しまった、悪いことをした』と思わなくなっているのみならず、そのことについて問いただされると、解析の意味をねじ曲げて講釈した上、誤解したのは自分ではなく他人の能力のせいだと居直っている」ように見えます。

もちろん、apjさんと技術開発者さんにそのような意図があったとは思いませんが、どうしてもそのように「見えてしまう」ということです。そして、このようなことが「態度」の問題として批判批判者に映るのではないでしょうか。私自身はお二人になんと言われようともしかたがないと思っていますが、やはり人格攻撃や、能力のなさを罵倒するような行為は控えていただいた方がいいのではないかと思います。

やっぱりずれている気が

Posted by apj at Jul 01, 2009 10:00 PM
 解析の資料を示せるのは、科学の一部ではないでしょうか。また、社会科学の一部でも、可能だと思います。
 しかし、法学の議論になると、科学の一部や社会科学の一部のような解析の資料というものは無いのではないでしょうか。科学であっても、解析の資料を示せるものでもないと考えます。

>しかし、私はニュートンではないので解析資料を提示することはできませんが、当のニュートンはできるはずですよね。
 当のニュートンであっても、やすさんの期待するような形ではできないだろう、というのが技術開発者さんが書いた内容の意味するところだと、私は読んだのですけど。

>「解析」は、私の知る限り、「論理的思考で考えること」と同義ではありません。
 私の知る限り、「解析」には常に資料が伴うというものでも無いので、あなたの主張の方にも穴があると思います。解析=資料があるもの、という前提を先に持ち込んだのはやすさんです。

>「こういうお子様な質問をした時点で、話が通じない相手と判断されることくらいは自覚して下さい。」という返答が返ってきました。
 解析の資料を見れば誰でも同じ結論に到達できる、と安易に考えていることに対するコメントです。一連の議論の流れから、やすさんが、資料があれば考えを共有できると考えていて、それ以外の可能性は考えていない、というふうに私は受け取りました。
 私も技術開発者さんも、やすさんの先生ではないので、「教えなければならない」義務も義理もないんです。大抵の場合、説明をしていることが多いのですが、ずれが大きな場合にまでとことんそうするかというと、それは時と場合によります。

>もう一つは、誤りがあった場合に訂正せず、その誤りのために生じた誤読についての責任はすべて他者にあるとする態度です。
 そもそも、技術開発者さんは、自分の話がやすさんには理解されないだろうとはっきり書いていたんですけど。

>すなわち、「解析をしたと教え、後で解析ではなくただの議論だった事に気が付いた時に
 違います。解析はしているけど、やすさんのイメージするようなものではなかったというだけの話では。

>やはり人格攻撃や、能力のなさを罵倒するような行為は控えていただいた方がいいのではないかと思います。
 相互理解は無理だろう、という判断がなされているときに、延々と食い下がってこだわるのはどうなんでしょう?

題材として議論してみます

Posted by 技術開発者 at Jul 02, 2009 08:51 AM
こんにちは、apjさん。

「ニセ科学の蔓延」問題を議論している中で、私がフランスの社会学者のスティグレールの「象徴的貧困」に言及した事を覚えていますか?

情報が多く成りすぎて人間の処理能力を超えた時に「想像力」が働かなくなり、情報が少なかった時よりももっと貧困化した情報処理が行われるといった現象ですけどね。スティグレール自身は、こういう「象徴的貧困」の背景として「欲求の商業化」ということに言及しています。私なりに理解すると、例えば「うまいものが食いたい」という欲求が本人の中できちんと形作られ「何かを食いに行こう」という欲求の上で「何を食おう」という選択が起こる以前に、TVなどが「味の宝石箱や~」とやることで、形作られる前の欲求がその場で「じゃあ、あれを食いに行こう」と急速に選択も含めて形作られてしまうことで、人間が持つ「生の欲求(リビドー)」を自分の手で欲求として形作る機能が失われていく、という風に考えています。

そういう、「欲求の形作り能力」の減少という事の題材としてやすさんを観察してみると結構興味深い面があります。「欲求の商業化」の中で成長すると、自分のもつ原初的な欲求、たとえばここで言うと「知りたい」と思う欲求などですが、それを他者への依頼等の形にする機能が低下します。さらにいうと「形作らなくては、分からないだろう」とも思えなくなります(想像力の低下)。なぜなら、社会にあふれる「欲求の商業化」メカニズムは、それを要求しないというより、その部分を代替するからです。その結果として、「世の中は私に対して私の観念に適合する形で答えを与えられて当然である」とする姿勢が生まれる訳です。なかなか興味深いのでやすさんそのものを題材として考察してみようという気になりかけています。

欲求の向こうにやすさんが居ない

Posted by apj at Jul 05, 2009 02:23 PM
技術開発者さん、

 既に下の方にいくつか書いてやすさんのお返事待ちの状態なのですが、私には、どうも、書かれた議論の向こうにやすさんが居ないような気がするんですね。
 最初の方の、規範の話はしない方が効率的、とか、技術開発者さんのたとえ話がわからない、という部分は、やすさんにとって真実で、ちゃんとご本人がいらっしゃるように思うんです。
 ところが、解析の資料を出せ、という発言になると、これは、これまでのやすさんの発言内容を踏まえると意味がわからないんです。やすさんにとって、技術開発者さんは「あやふやな説明しかしない人物、わからない説明ばっかりする人物」となっているので、そういう人物に解析の資料を求めて一体何がしたいのかが謎なんです。やすさん本人にとって「資料」がわかりやすい代物のはずがないわけですよ。もし、「他人が読んで役立つだろう」という話なら、やすさんには読み取れないけど他人には読み取れるだろう、という意味ですから、やすさんの読解力不足をご本人が認めていれば矛盾しませんが、やすさんは、読解力不足ではなくて技術開発者さんの書き方が悪いからだ、と言い続けています。

 資料について質問したらいけないのか、といったことをやすさんが書いておられました。別に私は「いけない」とは思っていません。ただ、やすさんの場合は、それまでの発言と矛盾する上に、「役立つかどうかわからない資料(やすさん的には作った人の作文能力に大いに問題有り)を、他の誰かが手間暇かけて検討することを前提にしていて、そういう作業を他人にさせることに価値があると考えている」という、救いようのないいい加減な内容の発言をしていることに本人が気づいていないことが問題だと思ったんですよ。当事者意識が皆無というか……。
 これに気づいて貰うだけ対話を重ねるのは、今は無理だろうと思いました。で、せっかく上の方でそれ以上言及せずに、仕切り直しをしているのに、そっちにまで出てきて資料を寄越せ、とやって、自分から墓穴を掘って、まだ気づいていないわけです。

 また、価値判断の基準がご本人には無いんですよね。技術開発者さんの結論に対し、同意しないとも同意するとも、やすさんは表明していません。その後、ご本人の価値判断をすればいい部分に「一般の人」や「人文・社会科学系の人たち」を持ち出しています。下の方の、ダブルスタンダード云々にしたって、私の態度がダブルスタンダードだと具体的に指摘すればいいのに、そうしないで、「ニセ科学批判」が「ダブルスタンダードだと言われる」と書いてます。こんな書き方をしたって、「それは私には関係ありませんが何か?」で終わってしまう話です。やすさんとしては批判を書いているつもりかもしれませんが、そこにやすさんの存在が感じられないんです。

果たして例外的存在なのか?

Posted by 技術開発者 at Jul 06, 2009 08:16 AM
こんにちは、apjさん。

>やすさんとしては批判を書いているつもりかもしれませんが、そこにやすさんの存在が感じられないんです。

やすさんだけを見ると、かなり例外的な存在に感じられると思うのですが、全体傾向として、はたして例外なのかという疑問を持っている訳です。

スティグレールは「欲求の商業化」を議論するにあたって、フォーデズムとハリウッド映画などから始まったという論をたてていますが、フォードに代表される「大量生産」は大量な消費者を必要とし、そのため、ハリウッド映画に代表される様な娯楽が消費欲求を喚起する方向に動かざるを得なかった訳です。自動車で恋人とドライブする若者とか、家族を皆車に乗せて買い物に出かける家族と言った「車を使うライフスタイル」をハリウッドが提供することで、大量生産を支える大量消費の「欲求」が「生み出される」という事です。

フォードに代表される大量生産は、やがてあらゆる産業分野に及び、ハリウッド映画はやがてTV番組へと変化していく訳ですが、そのマスコミの根底に「産業に歓迎されるライフスタイル」の提示が存在していたと考える訳です。

そのような流れの中で、現代人は「自らが何を欲しているのか」を内省して認識する力を失い、それに伴って想像力を貧困化させているのではないか?という訳です。

やすさんが例外的なのではなく、現代人の多くが大なり小なり持つ傾向がたまたま強固に現れているのに過ぎないのではないか?という仮定の上で彼を観察してみたいと考えています。

技術開発者さんの問題について

Posted by やす at Jul 02, 2009 01:21 PM
>解析の資料を示せるのは、科学の一部ではないでしょうか。また、社会科学の一部でも、可能だと思います。

apjさんが、「科学」というときは「自然科学」を指し、それ以外の科学の場合には適宜明記するというかいしゃくでよろしいですね。

>しかし、法学の議論になると、科学の一部や社会科学の一部のような解析の資料というものは無いのではないでしょうか。科学であっても、解析の資料を示せるものでもないと考えます。

私は法学の話なんかしてませんよ。技術開発者さんの「解析した結果として「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。」というコメントに対して質問したのです。

>科学であっても、解析の資料を示せるものでもないと考えます。

自然科学で、解析した場合にその資料が示せないことなんてあるんですかねえ。

>当のニュートンであっても、やすさんの期待するような形ではできないだろう、というのが技術開発者さんが書いた内容の意味するところだと、私は読んだのですけど。

まず、「やすさんの期待するような形」というのは、どういう形ですか。別に、私の期待する形でなければ問題なくニュートンは解析資料を提示できるでしょう。

>私の知る限り、「解析」には常に資料が伴うというものでも無いので、あなたの主張の方にも穴があると思います。解析=資料があるもの、という前提を先に持ち込んだのはやすさんです。

わたしは『「解析」には常に資料が伴う』とも主張していないし、「解析=資料があるもの、という前提を先に持ち込ん」でもいません。解析したというからには資料があるだろうと推測したまでで、別に資料がないことを責めた訳でもありません。ないならないとはっきりいってくださいともお願いしています。ところが、apjさんと技術開発者さんは、私が、「解析したというからには資料があるだろうと推測した」ことまで非難しています。これは非難されるべきことでしょうか。逆に資料がないことを正直に言わず、無用の議論を引き起こした責任は技術開発者さんにあると思うのですけれど。

>一連の議論の流れから、やすさんが、資料があれば考えを共有できると考えていて、それ以外の可能性は考えていない、というふうに私は受け取りました。

わたしは、「資料が役に立つかどうかはともかく、検討する価値はあると思いますよ。」とはっきり書いています。わたしのどの発言を根拠に「やすさんが、資料があれば考えを共有できると考えていて、それ以外の可能性は考えていない」と受け取られたのですか?

>私も技術開発者さんも、やすさんの先生ではないので、「教えなければならない」義務も義理もないんです。大抵の場合、説明をしていることが多いのですが、ずれが大きな場合にまでとことんそうするかというと、それは時と場合によります。

過去の具体例へのリンク、ムペンバ効果の考え方など、確かにお二人には親切に解説をしていただき、そのことには感謝しています。
しかし、今回の問題はいままでのニセ科学に対する批判活動にとって非常に大きな問題を提示していると思いました。理由は下に述べます。

>そもそも、技術開発者さんは、自分の話がやすさんには理解されないだろうとはっきり書いていたんですけど。

技術開発者さんは私個人に対してコメントした訳ですよね。そのコメントの主旨は、私を批判するためのものだった。これは技術開発者さんに確認しています。ですから私はその主張の根拠を求めた。そうしたら、主張の根拠を求める行為そのものを非難された。つまり、何の根拠もなく私を非難したわけですよね。根拠のないものを言いふらすのは社会規範に違反していると思いませんか。「やすさんには理解されない」ではなく「やすさんに根拠を示すことが出来ない」というのが適当ではないですか。

>違います。解析はしているけど、やすさんのイメージするようなものではなかったというだけの話では。

そういうのは普通「議論を重ねたうえで熟考した」などと書くものです。「解析」という言葉を使うのは紛らわしいので不適当だと考えます。

>>やはり人格攻撃や、能力のなさを罵倒するような行為は控えていただいた方がいいのではないかと思います。
 >相互理解は無理だろう、という判断がなされているときに、延々と食い下がってこだわるのはどうなんでしょう?

まず、私がたとえ「延々と食い下がってこだわ」ったとしても、人格攻撃や、能力のなさを罵倒するような行為を正当化する理由にはなりません。

次に、「相互理解は無理だろう、という判断がなされ」たということですが、私は単に不明瞭な点について根拠を求めただけで、別に反対意見を述べた訳ではありません。それでも「相互理解は無理だ」という理由を付けて議論を一方的に打ち切ろうとしたのは、技術開発者さんが根拠を示すことが出来なかったことをごまかすため、ということでしょう。ここでも責任のすり替えが行われています。相互理解できないのは、自分が根拠を示すことが出来ないせいではなく、やすがよけいなことを聞いてくるからだ、と。ここで私が引き下がっては、私に非があることを認めることになってしまいます。ですから、私は延々と食い下がるしかないのです。

私は技術開発者さんのような議論の進め方は、ニセ科学を批判するときに一般の人からの賛同を得にくいだろうな、と思います。お得意のたとえ話も、主張をわかりやすくするというよりも、かえってわかりにくくなっています。根拠と理論だけで議論を進めることはできないのでしょうか。あるいは、たとえ話を楽しみにしている人たちがいて、その人たちの期待に応えるために、たとえ話を作らずにはコメントを書き込めないような状態になっているのでしょうか。
さらに付け加えると、技術開発者さんの主張は、人文・社会科学系の人たちにとっては慎重さを欠いた意見に思えるのではないかと想像します。この辺りが、人文・社会科学系の人たちの協力を得られがたい理由ではないでしょうか。

もちろん技術開発者さんの議論の進め方のすべてが悪いということではなく、非常に有益で論理的なコメントも多々あります。しかし、主張が同じ人たちに対する解説としてたとえ話を用いるのと、主張が違う人たちを非難する意図でたとえ話を用いるのとでは、自ずと効果が違ってきてしまうのではないかと思うのです。

apjさんは、態度について批判されること、ならびに社会科学系の人たちの賛同を得られにくいことなどに対して言及されています。今回の議論がこれらの点を解消するのに少しでも役立っていただければ幸いと存じます。

では、私の意見を書きます

Posted by apj at Jul 02, 2009 10:18 PM
>次に、「相互理解は無理だろう、という判断がなされ」たということですが、私は単に不明瞭な点について根拠を求めただけで、別に反対意見を述べた訳ではありません。

 その根拠の求め方から、さかのぼって説明しなければならないステップ数がかなり多くなりそうだ、ということが予想されたので、理解に至るのは無理だと考えました。

>相互理解できないのは、自分が根拠を示すことが出来ないせいではなく、やすがよけいなことを聞いてくるからだ、と。

 ではなくて、質問の内容や方向から、やすさんが前提にしていることが、あまりに違っていて、すりあわせの手間が膨大になりそうだったので、これは無理だろうと私も考えました。

>ですから、私は延々と食い下がるしかないのです。

 それが見当外れなんですよ。


そりゃ、最初の態度が悪すぎるから……

Posted by apj at Jul 03, 2009 12:52 AM
訂正です。

>わたしは、「資料が役に立つかどうかはともかく、検討する価値はあると思いますよ。」とはっきり書いています。わたしのどの発言を根拠に「やすさんが、資料があれば考えを共有できると考えていて、それ以外の可能性は考えていない」と受け取られたのですか?

 わかりました。
「やすさんが、資料があれば考えを共有できると考えていて、それ以外の可能性は考えていない」を改め、「やすさんは、資料について他人事かつ無責任な発言をしておいて、しつこくそれを通そうとした」に変更いたします。ずれたコメントであったことをお詫びします。

 無責任の理由は次の通りです。
 「役に立つかどうかは別」だけど「検討する価値」がある、という主張が意味不明です。
 せめて、「役に立つかもしれない」という期待くらいは最初にないと、検討する価値があるとは私には思えないんですよ。元の資料から誰かの思考を追うというのはそれなりに時間も労力もかかる上、できる人が限られます。この発言をなさった時、やすさんの設定では、一体誰がその*面倒な*検討をすることになっていたのでしょうか。役にも立ちそうにないことを検討する酔狂な人が一体どこに居るんでしょう。
 「役に立つかどうかはわからないけど、膨大な資料であったとしてもぜひ手間暇かけて公開してくださいね、技術開発者さん。そうしたら、最終的に役立つかどうかはともかく、労力と時間を投入してちゃんと検討しますよね、他の皆さん。まあ、そこまで手間と時間をかけても、資料は役に立たないかも知れませんけど、検討する価値はあるでしょうね」ってことですか。何だか、やる気があっても無くなりそうですけど。

 やすさんの発言は、「まず、私が手間も時間も惜しまず資料を検討しますので、資料をぜひ出して下さい」という趣旨じゃないわけですよね。

 それから、私が補った部分について、多分、そこまでは書いてないとおっしゃるでしょうね。
しかし、やすさんは、技術開発者さんが書かれた落語のたとえ話と社会規範の関係が読み取れていなくて、質問しているわけです。ということは、その技術開発者さんの資料があったとしても、それがやすさんに理解可能な内容であると予想するのは楽観的すぎますよね。ということは、検討作業は必然的にやすさん以外の人がやるしかないだろう、という状況が想定されるわけです。

 そんな「他人事」なスタンスで、資料を出せと言われても、ちょっと何だかなあ、と思います。仮に、それなりに出しやすい形で持っていたとしても出す気が一気に失せるというか。

仕切り直し継続

Posted by apj at Jun 29, 2009 06:33 PM
折角仕切り直したのに別の議論が挟まりましたが、続けます。

>現実の社会は「ヨタ話の蔓延」という事に慣れきっている面があって、「ヨタ話が蔓延してもなんら悪い事ではない」という意識になっているのではないでしょうか?

 ヨタ話に2種類あるんじゃないでしょうか。

 バレンタインデー、ホワイトデー、恵方巻き、といったものには「正解が無い」んです。商業主義と結びついていて根拠が無いことは確かですが、元々あった何か確定済みの「正しいこと」を偽るという形にはなっていません。

 しかし、ニセ科学は、既にある「正解」を偽っているわけです。

 正解を偽らないヨタ話が蔓延することで、正解を偽るヨタ話の蔓延にも手を貸しているとすると、これは相当に厄介な問題です。後の方が問題だからといって、前の方を規制せよ、という話に持っていくのはちょっと無理そうですので。前の方の規制は、非合理全てを撃つべきだ、という主張になってしまいますが、それはやはり違うし、行きすぎでしょう。
 どうやって、正解を偽らないヨタ話と正解を偽るヨタ話を峻別するか、という話になりそうです。

自分の内部を見る力

Posted by 技術開発者 at Jun 30, 2009 08:19 AM
こんにちは、apjさん。

>正解を偽らないヨタ話が蔓延することで、正解を偽るヨタ話の蔓延にも手を貸しているとすると、これは相当に厄介な問題です。

上の方の「社会規範」に関するコメントを読んでいると、あることに気が付きます。それは「自分の内部に何があるか」に立ち戻ってみる意見が非常に少ないという事です。自分たちが社会で生きている以上、社会の規範というのは自分に影響を及ぼしていると考え、自分の中に「いい加減な事を言いふらす」事に対する禁忌感とか、そういう者を見たときに感じる嫌悪感があるかないかを考察する事が無くなっている気がします。私は「道を尋ねられて教え、後で違う道を教えた事に気が付いた時に『しまった、悪いことをした』と思わなくなっているのではないか」なんて事を書いたりしますが、社会に規範性がなくなるということは、個人個人が持っている禁忌感の喪失を意味する訳です。

>後の方が問題だからといって、前の方を規制せよ、という話に持っていくのはちょっと無理そうですので。

規制というほど大げさなことではないけど、ある種親が子に行う教育の中に「後ろめたさを植え付ける」くらいのことは有って良いのかもしれないと思ったりしています。私が子供だった頃に子供たちの間に「賭けるか?」なんて言葉が流行りましてね。別に何かを賭けるという事でもなく「本当?嘘だろ」「嘘じゃない」「賭けるか?」みたいなやりとりが流行った訳ですね。子供だった私が兄弟とそういう話をしていたら、親父が怖い顔をして叱ったわけですよ「賭け事なんてのは罪悪だから、子供の癖にそんな言葉を使うな」なんてね。と言いながら、親父はパチンコくらいは嗜んだと思いますけどね(笑)。でも、子供心に「賭け事=良くない」なんてのはけっこうしみつきましてね。大人になるに連れて、パチンコもやるしマージャンもやるようになったけど、心のどこかにちょっとした「うしろめたさ」みたいなものがある訳です。現代人はそうやって親から刷り込まれる「後ろめたさ」みたいなものを失って居るんじゃないかと考えたりもするんですね。

ハインリッヒの法則のようなもの

Posted by 技術開発者 at Jul 03, 2009 09:43 AM
こんにちは、apjさん。

>ヨタ話に2種類あるんじゃないでしょうか。

分類はされるんだけど、その分類を別系列におくか連続列でどこかに閾値があると置くかという考え方がありそうですね。

私は労働安全衛生の関連も仕事でやらされたりするけど、いわゆるハインリッヒの法則ね。大事故が一つ起こる前には小事故が30くらい起こっていて、事故にはならなかったヒヤリハットが300くらいあるなんてね。これは、ヒヤリハットみたいなものを大事故と一連の連続ととらえて考えてはじめて成り立つわけです。

「正解」の意味

Posted by apj at Jun 29, 2009 06:37 PM
補足です。

 科学の方で○○は効果無し、が確定しているのに、効果有りを謳っている、というケースは、正解を偽っているということが明らかな例です。
 科学の方では結論が出ていなくて、「不明」というのが現在の正解なのに、効果有りを謳う、というケースも、正解を偽っている、と判断することになります。
 つまり、正解を得るまでの手続きがはっきりしていて、現在わかっていることから導ける範囲から逸脱しているものについて、正解を偽る、という表現をしています。

何故こんなにずれている(と感じる)のか

Posted by apj at Jul 03, 2009 01:03 AM
やすさんの一連のコメントについて。
どうにも違和感がありまくっているのに、うまくピンポイントで指摘できない。アンバランスを感じるというか……。

どのあたりに私が引っ掛かっているかを書いてみる。

(1)まず、技術開発者さんが社会規範の説明として落語の例を出し、やすさんが、落語と規範の関係がわからないので説明してくれ、と書いた部分。
 私には、技術開発者さんが規範の機能のあり方の例を説明しているように見えたのだけど、やすさんには見当もついていないらしい。つまり、わたしとやすさんとの間には、読解力にギャップがあるということになります。すると、やすさんに何かを説明する時には、このギャップの存在を前提にしないと、うまく話が通じないでしょう。

(2)技術開発者さんが「解析」と書いたことに対して、やすさんが、解析の資料を出せば役立つだろう、と主張した部分。
 個別の事例を山ほど見て「どうやらこうらしい」という考えに至ったものについて、資料を出せ、とやったところで、それが誰かの役に立つとは思えないです。技術開発者さんがかけたのと同じ手間と時間をかけるつもりがあって、かつ、技術開発者さんと同等の理解力があれば、その人には役立つかも知れないが、ニセ科学の議論を広く行う際に役立つ資料になるとは到底考えがたいです。
 自然科学でも、解析の資料を出せ、とやることはあるが(私もやったことはあるが)、自分が相手と同等かそれ以上の知識なり理解力があることが前提です。そうでないと資料をもらったところで活用などできないし、検討も無理では。結局、相手に逐一、ここはどういう意味ですか、と説明してもらわないと埒が明かなくなりそうです。
 しかし、やすさんは、資料があればそれで何とかなると考えているようです。なぜそういう発想をしているのかがわかりません。一体どういう経験からこのように考えるようになったのか、私には見当がつかないんです。
 特に(1)のギャップがある以上、やすさん本人に検討が可能とは思えないんです。他人が検討することを期待して資料を出せと言っているのだとしたら、(既に書いたけど)それも何だか違う気がします。

(3)技術開発者さんが述べた「「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。」に対して、これまで、やすさんは、「違う」とも「合っている」とも、何の判定もしていません。その一方で、この結論が出てきた「解析」の部分にばかり、異常にこだわっています。やすさんの問題意識がどこにあるのかがさっぱりわからないんです。技術開発者さんがどういうプロセスでこの結論に至ろうが、やすさんなりの論拠をもって否定するなり賛成するなり改訂するなりすれば良いのに、こだわる場所が違うんじゃないかと。
 技術開発者さんに質問ばっかりしていて、もともとの規範についての話題に対するやすさんの意見とかやすさんの判断が全く出てこないのはなぜか、引っ掛かっています。

 以上のことから、多分、技術開発者さんとやすさんで話をしても相互理解には至らないだろうと私は考えています。

 次にやすさんが書かれたのとは別の可能性を列挙してみます。

>私は単に不明瞭な点について根拠を求めた

 やすさんの方がずれているか、理解する準備がない場合であっても、やすさんの主観では不明瞭な点がある、と思うかもしれない。

>それでも「相互理解は無理だ」という理由を付けて議論を一方的に打ち切ろうとしたのは、技術開発者さんが根拠を示すことが出来なかったことをごまかすため、ということでしょう。

 理解する能力が無いことを自覚もできない、と他の人が考えている場合には、議論するだけ無駄という結論が出ることがあるかもしれない。

>相互理解できないのは、自分が根拠を示すことが出来ないせいではなく、やすがよけいなことを聞いてくるからだ、と。

 質問の仕方から「理解力に難がある」と判断された場合も、相互理解できないという結論に至るかもしれない。

>ここで私が引き下がっては、私に非があることを認めることになってしまいます。ですから、私は延々と食い下がるしかないのです。

 非を認める云々という発言そのものが、理解力の無さを示している。認めるべきは、理解する準備がまだ整っていないかもしれない、と想像することであって、非を認めるといった話ではないのではないか。

 あくまでも別の「可能性」です。合ってるかどうかは知りませんが。

 なお、その場で理解ができなくても、悪い事でも何でもないです。単にその人にとって時期が来ていないとか、経験が足りないといった理由があるかもしれません。後でわかることだってあります。私についていえば、規範について考えるように(poohさんのblogであらきけいすけさんに)示唆されてから、ここに書いたまとめを出すまでに2年ほどかかっています。

 次に、やすさんの発言が「空っぽ」であると、私が感じた部分があります。

>私は技術開発者さんのような議論の進め方は、ニセ科学を批判するときに一般の人からの賛同を得にくいだろうな、と思います。
 なぜここで「一般の人」を持ち出すのか。「一般の人」に頼らず、やすさんがやすさんの言葉で、賛同を得にくい理由をなぜ説明しないのか。(空っぽその1)

>お得意のたとえ話も、主張をわかりやすくするというよりも、かえってわかりにくくなっています。根拠と理論だけで議論を進めることはできないのでしょうか。あるいは、たとえ話を楽しみにしている人たちがいて、その人たちの期待に応えるために、たとえ話を作らずにはコメントを書き込めないような状態になっているのでしょうか。
 私にはそれなりにわかりやすい。また、同様のたとえ話を別の場所でやっているのを見かけたことは多々あるが、たとえ話のせいでわかりにくいと言い出す人はほとんど見かけなかった。とはいえこの部分はやすさんの意見あるいは主張であると読み取れます。

>さらに付け加えると、技術開発者さんの主張は、人文・社会科学系の人たちにとっては慎重さを欠いた意見に思えるのではないかと想像します。
 上と同様。「人文・社会科学系の人たち」を持ち出さずに、なぜ、やすさんの「人文・社会学系の知識」に基づき、技術開発者さんはここが慎重ではない、とはっきり論じないのか。(空っぽその2)

 やすさん自身の意見を知ろうにも、「技術開発者さんのたとえ話がわかりにくい」以上のものが出てこないんです。他の部分は、「やすさんが想像している別の人の基準」に基づいているため、そこから先の理解のしようがない。想像上の人の基準なんかどうでもいいから、やすさんの基準はどうなのかを知りたいんですけどね。

>この辺りが、人文・社会科学系の人たちの協力を得られがたい理由ではないでしょうか。

 正確にいうなら、法社会学か法哲学の人の手助けがほしい、と言ったのは私であって、技術開発者さんは人文・社会学系の人達の協力が欲しいといったことを言ってはいないのでは。


>しかし、主張が同じ人たちに対する解説としてたとえ話を用いるのと、主張が違う人たちを非難する意図でたとえ話を用いるのとでは、自ずと効果が違ってきてしまうのではないかと思うのです。

 この発言がものすごく謎です。やすさんの主張と技術開発者さんの主張って、違ってたんですか?
 やすさんは、技術開発者さんがたどりついた結論である
>>「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。
に対して、解析の資料を出せとは言ったけど、この主張そのものに対しては何も主張してませんよね?賛成とも反対とも違うとも合ってるとも言ってない。
 技術開発者さんの方が「やすさんには言っても理解されないだろう」という立場をとり、やすさんが延々食い下がっているだけで、主張が違うような場面は無かったと思うんですが。

(1)についてのみ。

Posted by やす at Jul 03, 2009 11:58 PM
apjさん、

落語の例が出てきたコメントを改めて読んでみたけれど、(「弱い強制力ということ」Posted by 技術開発者 at Jun 15, 2009 03:46 PM)これだけでは何が言いたいのかさっぱりわかりません。本当にapjさんは落語の例のコメントだけを読んで規範の機能のあり方の例だと思ったのですか。いったいどこをどう読んだらそういう結論に達するのですか。この落語の例が出てきたコメントだけを読んで社会規範と何か関係があると読み取れる人はおそらく皆無ですよ。このどうしようもないコメントを理解できないという事実をもって私の読解力不足の証拠にされるのは、たまったもんじゃないですね。これはいくら何でもひどい。このコメントにおけるような技術開発者さんの作文能力の欠如を不問にし、私の読解能力ばかりあげつらうようなことをするから、『「ニセ科学批判」はダブルスタンダードだ』などと言われてしまうのですよ。
まあ、技術開発者さんが訳の分からないたとえ話を書き散らかすのは勝手ですけれど、この落語のコメントは私個人に当てられたものです。しかも、会話を進めることによってわかったことですが、これは私の人格を貶めようと意図して書かれたものです。例によって何の根拠もなしにね。ですから、この件に関しては、私は徹底的に問いつめますよ。これが私宛に書かれたのでなければ、まあ、無視したでしょうね。
apjさんの超人的読解力をもって解説して欲しいんですけど、なぜ技術開発者さんはこのコメントをapjさん宛にせずに、私宛にしたんでしょうね。そうするからには、私のそれ以前の発言との何らかの関連性を持たせるべきですよね。でも関連性は全く見いだせなかった。apjさんには関連性を見いだせますか?

(2)(3)にも答えて下さい

Posted by apj at Jul 04, 2009 01:58 AM
やすさん、

>落語の例が出てきたコメントを改めて読んでみたけれど、(「弱い強制力ということ」Posted by 技術開発者 at Jun 15, 2009 03:46 PM)これだけでは何が言いたいのかさっぱりわかりません。本当にapjさんは落語の例のコメントだけを読んで規範の機能のあり方の例だと思ったのですか。いったいどこをどう読んだらそういう結論に達するのですか。

 まずお返事を。
 それ以前から規範の話をしてきていたところに、たとえ話が出てきたので、規範の話の例として読み解けないか考えたら、機能のあり方の例だと読み取れました。

 以下、どうずれているかを書いてみます。

>この落語の例が出てきたコメントだけを読んで社会規範と何か関係があると読み取れる人はおそらく皆無ですよ。

 技術開発者さんのたとえ話が私に理解できてやすさんには理解できなかった、という事実があっただけですよね。そこから、ご自分の読解力を基準にして、「読み取れる人はおそらく皆無」という結論は出てきませんよね。そう言い張るのは自由ですが。

>このどうしようもないコメントを理解できないという事実をもって私の読解力不足の証拠にされるのは、たまったもんじゃないですね。これはいくら何でもひどい。

 不足かどうかはともかく、技術開発者さんの考え方や表現をやすさんが受け取ることができていないというのは、事実として起きていることですよね。で、私は技術開発者さんのいわんとするところが大体わかるわけですから、やすさんと私の読解力には「ギャップ」があるわけです。ギャップがあること=不足があること、ではないです、念のため。

>このコメントにおけるような技術開発者さんの作文能力の欠如を不問にし、私の読解能力ばかりあげつらうようなことをするから、『「ニセ科学批判」はダブルスタンダードだ』などと言われてしまうのですよ。

 私には理解できた話が、あなたには理解できなかったという事実があっただけです。私の方は、理解できたのだから、技術開発者さんの表現がわかりにくい、などというツッコミを入れる必要は無いです。
 ところが、あなたは、自分の読解力は不足していないと言い張り、技術開発者さんの作文能力ばっかりあげつらっているわけです。つまり、ご自分の主張あり方がそのままご自分に返る形になっています。
 私自身が理解できている話に対してツッコミを入れないことがなぜダブルスタンダードになるのか意味不明です。また、「ニセ科学批判」と括れるようなものは存在しないということを既に議論して示していますので、『「ニセ科学批判」はダブルスタンダードだ』というのは何の意味もない言明ですね。存在しないものに対して何を言っても空理空論以上にはなりませんので。

>まあ、技術開発者さんが訳の分からないたとえ話を書き散らかすのは勝手ですけれど、この落語のコメントは私個人に当てられたものです。

 それは少し違うと思います。ここも含めて、やり取りが公開される場所では、誰かにコメントするという形をとりつつ、ギャラリーにもコメントのあり方を見せるということは普通に行われています。

>しかも、会話を進めることによってわかったことですが、これは私の人格を貶めようと意図して書かれたものです。例によって何の根拠もなしにね。ですから、この件に関しては、私は徹底的に問いつめますよ。これが私宛に書かれたのでなければ、まあ、無視したでしょうね。

 私には、やすさんが何か被害妄想を抱いているようにしか見えません。

 もともとはやすさんの「批判理由として「社会規範」は効果的か 2009年06月09日 16時23分」という投稿があったわけです。
 この中でやすさんは、

>ウソと言っても、ピンからキリまで有りますし、小さなウソなら別についてもかまわないという人がいても不思議では有りません。それならば、漠然と「ウソをつくことが社会規範上批判に値する」を批判理由にしてもあまり効果的ではないように思えるのですが。むしろ、「そんな漠然とした理由で批判活動をしているのか」という謝った印象を持ってしまう人が出てきてしまう危険はありませんか?

 と書きました。さらに、

>個々のニセ科学を批判する行為には立派な理由があるのですし、別に一般化した理由を掲げなくてもいいと思いますけど。反対している人も少なくないようですし。

 と続け、

>正しい、正しくないの議論ではなく、どうしたらより効果的か、ということを私なりに考えて投稿しました。

 とおっしゃったわけです。これらの内容から、やすさんが、批判に規範を持ち込んでも効果的ではない、と考えていたことがわかります。

 これに対して、技術開発者さんが、「せんみつの与太郎」の例を出したわけです。デタラメを言うのは良くないことだ、という規範を維持したことによって、話を受け取る側が怪しい話を割り引いて聞くことで被害発生を減らす、怪しい話をそれ以上広めないようにする、といったことが可能になります。さらに大した被害が発生しなければ、与太郎もそんなに厳しく責められなくても済みます。規範の機能は、単に違反者にペナルティを与えるためにあるというのではなく、そのあり方は多様であり、規範を維持しておいた方が良いだろう、という説明であると私は読みました。


 さて、(1)だけ、などというケチなことを言わずに、私が書いた(2)や(3)にも答えていただきたいんですけどね。

(2)手間暇をかけて技術開発者さんの資料を検討することになるのが誰であると想定して、解析の資料を出すように何度も主張したのか。
(3)技術開発者さんの出した結論「「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。」に対するやすさんなりの評価はどのようなものか。この主張を否定するのか同意するのか一部変えるべきと考えているのか、といったコメントを知りたい。

 両方とも大事なことですので、きちんと答えて下さい。この2つの質問に答えるのに、読解力は必要ありません。(2)はそもそもやすさんが書かれた内容についての補足説明を私が求めているだけで、(3)はやすさんご自身の価値判断についてお訊きしているだけですので。
 これら2つの問いにきちんと答えられないのなら、あなたの議論には最初から意味などなく、「技術開発者さんに人格を貶められた」という「思い込み」のもとに、無意味な反論を繰り返していると見做します。

「ダブルスダンダード」もお返しすべきでしょうか

Posted by apj at Jul 05, 2009 02:30 PM
やすさん、追加です。

 私は、やすさんに(2)(3)について質問をして、今、回答を待っている状態です。
もし、回答がなければ、「ダブルスタンダード」なのはやすさんの態度である、という結論を出すことになります。
 なぜなら、やすさんは、
・他人には質問して説明を求める(例:技術開発者さんにあれこれ訊いていた)
・他人からの質問には答えない(例:現在回答待ちの私の質問がある状態)
という態度をとっていたことになるからです。
 私に対してダブルスタンダードだという趣旨の発言をなさった以上、あなたご自身がこれでは話になりません。それこそ「他人をダブルスタンダード呼ばわりする人は本人がダブルスタンダードである」とでも言うしかなくなります。
 お答えがあればそうはなりませんので、ご検討ください。

やはり意味がわからない

Posted by apj at Jul 04, 2009 03:01 AM
 ちょっと上の方を読み返したんですけどね。

 やすさんは、技術開発者さんの毒キノコのたとえ話は曖昧でわかりにくい、と書いておられ、落語のせんみつの話は一体どこが社会規範の話かわからない、と書いているわけです。さらに、話がわからないのはやすさんの読解力に問題があるのではなく、技術開発者さんの表現がまずいからで、わからないのは自分だけではなく他の人だって同じ筈だ、と主張しています。
 これらの主張をすべて認めるとします。すると、「技術開発者さんは意味不明で曖昧なたとえ話を多用するような表現を好む人で、おそらくそういう表現を導き出すような思考パターンの持ち主である」ということになります。

 さて、このような「ワケわかんない説明ばっかりしたがる思考回路の持ち主」が、解析の結果云々……、と発言したんですね。

 この状況で、そんな理解しがたい人の解析の資料をわざわざ見て検討する価値がある、などとは、普通は考えないんじゃないですかね?ワケわかんない奴の解析結果なんて、どうせまともなことは書いてないし読み取れないだろうから見るだけ時間の無駄、って思うもんじゃないですかね。少なくともやすさんにとっては、見たってしょうがない代物という位置づけになるはずじゃないんですか?

 やすさんの、技術開発者さんの発言に対する質問の内容と、技術開発者さんに対して解析の資料を求める行為って、考えれば考えるほど両立しそうにないんですよ。一体どうなってるんですか?

流動食国家論というのも出してみた

Posted by 技術開発者 at Jul 06, 2009 05:37 PM
こんにちは、apjさん。3年ほど前ですが「流動食国家論」なんて話を別なところに書いたことがあります。

-------------------------
 最近、日本というのが知性というか教養の部分で「流動食国家」と成りつつあるのでは無いかと思い始めましたので書いて見ます。考えたことの基本はこういう事です。理解するために多少の苦労を必要とする話というのは世の中にあるわけですね。法律を読むなら独特の言い回しの意味することを理解できないとならないし、経済学を本当に理解したいなら、用語の知識やら、統計学的な部分も或る程度は分からないとならない訳です。それに対して、「うわぁ~難解だ、嫌だぁ~」と言うと、「はいはい、じゃあすり下ろして柔らかくして上げましょう」とか「柔らかいけど長すぎて飲み込みにくいですか、じゃあ中のエッセンスだけ取り出してお渡ししましょう」とかのサービスが世の中に満ちあふれているという事です。まあ、私などもずいぶんと法律の事をかみ砕いて書いてきたりしましたから、その仲間なのかもしれませんけどね。

 問題は、そのように「本来、或る程度歯ごたえあって当然のこと」に対して、「柔らかくして、エッセンスのみ取り出してお教えします」というサービスがあふれてしまう事で、「歯ごたえが有って当然」とは思えなくなってしまっているのではないかという事です。そういうのは、「ダメな情報提供」としか思えなくて、「自分が噛むのをさぼっているのは当然、流動食にしてくれない提供者が悪い」という風潮がある様に思えて来たわけです。

 知性・教養を得る手段として「わかりやすさ」を過度に求める姿を、流動食あるいは離乳食に例えてみると、ある意味で解決策といえるものも見えてくる面があります。歯ごたえもまた「味わい」であるという事ですね。まあ、乳歯が生えそろいもしない赤ん坊に堅焼きせんべいを囓らせる事はできませんが、前歯が生えそろった頃に、リンゴをかみ切るという事を覚えた子供は、もはや離乳食には戻らない訳です。つまり、多少歯ごたえのある情報でも、それに対して頭を多少使って理解することそのものが「喜びをもたらす」という面を伝えて行くなら、解決策になるのかもしれないと思ったわけです。
--------------------------

解決策にはならない人もいるというだけのことでしょうね(笑)。

本はこれでしょうか

Posted by apj at Jul 07, 2009 11:17 PM
技術開発者さん、

 ちょっと上の方で、「欲求の商業化」の話が出ていました。amazonで調べたのですが、スティグレールの本は
http://www.amazon.co.jp/dp/4794806914/
らしいとわかったので、取り寄せ中です。私も読んでみます。
 実は、ここでのニセ科学と規範の話とも別に、「欲求の商業化」は私の本業(大学教員)の方でも深刻な問題じゃないかと思えてきたんです。それで、大学生向けの学習スキルについての解説本も何冊か同時に注文しました。
 大学では、FDの掛け声が強くなっていて、学生に対しての教え方の工夫をせよ、ということになりつつあります。もちろん、情報伝達に支障を来すほど下手糞では仕方がないのですが、まかりまちがうと、学生の欲求に迎合してしまって、「象徴的貧困」を大学教育で実現してしまいかねない、と危惧しているのです。私は、「欲求の商業化」が世間で行われているとしたら、大学ではそれをぶちこわさないとまずいだろうと考えています。ウチの大学でも授業アンケートをやっているのですが、「自分が噛むのをさぼっているのは当然、流動食にしてくれない提供者が悪い」を制度として正当化してしまっている可能性があります。

>まあ、私などもずいぶんと法律の事をかみ砕いて書いてきたりしましたから、その仲間なのかもしれませんけどね。

 えーと、実は別掲示板でお世話になりました。で、「何で技術開発者さんにその解説が出来て私には出来ないんだ?」と少々不満に思ったもので、せっせと基本書を買い込んで自分で読むハメになりました。味わいは深かったです。最初はハードルが高くて何をどう読んだらいいのかもわかりませんでした。一体これはどういう世界なんだ?とも思ったし、少々カルチャーショックも受けました。今は、理解できましたと断言するにはほど遠いですが、繰り返して読んだり考えたりすることで、その度毎に少しずつ理解できることが増えていって、見える風景も広がっていると思っていたりします。

 誰かが考えていることを同じように理解できるようになるまでには、知識と経験の蓄積も含めて時間がかかることがあるのだという実感を欠いていれば、何でも見りゃーわかる、というノリになるんでしょうね。全く同じ本を読んだって、何をどこまで理解できるかは、読み手にも依存しますしね。

個人と象徴の葛藤

Posted by 技術開発者 at Jul 08, 2009 09:01 AM
こんにちは、apjさん。無駄話です。

>実は、ここでのニセ科学と規範の話とも別に、「欲求の商業化」は私の本業(大学教員)の方でも深刻な問題じゃないかと思えてきたんです。

昔話ですけどね。大学に入って、まあ、先生が進める教科書というのを買ったわけですよ。無機がヘスロップ、ロビンソン上下とコットン、ウイルキンソン上下で有機がアリンジャー3冊とフィーザー3冊、物理化学がムーア上下なんてね。でもって下宿で最初にパラパラとめくって「こりゃあ、厳しいぞ」なんてね。量もあるけど中身がその頃の私にはとっても難解に思えてね(笑)。

でもって、変な話だけどまだ、虚勢を張るみたいなところがその頃は学生の間にもあって、「有機の話は読めば分かる」なんて言い合ったりもしていたのね。こっちも虚勢を張って「有機は苦手だけど無機なら読めば・・・」なんて言っている面はあるんだけどねぇ(笑)。

なんていうかな、そうやって多少は虚勢を張り合う中に「みんなは理解できているのではなかろうか」みたいな「みんな観」が多少は醸成される訳です。でもって、その「みんな観」に後押しされる形で渋々ながら教科書に齧り付く・・・。まあ、1、2年立つと、実際に分かっている奴とそうでない奴の区別はついてくるのだけどね(笑)。その時には自分も或る程度は囓った後だったりするわけです。

この「みんな観」なんてのは、或る意味で「象徴」なんですね。その象徴と個人の間の葛藤が「齧り付かせる」働きを生んでいる訳ですよ。私は仕事についてから、なぜか分からないけど旧帝大出のご老人に可愛がられる機会が多かった人なのだけど、旧帝大なんてのはまさに「最高学府」の識の塊で、その結果として「ドイツ語の原書が読めて当たり前」みたいな「みんな観」を象徴にするから、かなりの学生がドイツ語に齧り付いて、結局はスラスラ読んでしまうようになる。前にどこかで書いたかもしれないけど「この前DINが変わりましてね」とDIN(当然ドイツ語)のコピーをポンと前に置かれて「ほらこんな風に」とあるセンテンスを指さされた時の私なんて「凍った」がまさにそのまま・・・(笑)。

回答です。

Posted by やす at Jul 06, 2009 06:50 PM
apjさん、

ちょっと遠くに出かけていたので、早く返事が書けませんでした。「(1)についてのみ。」のコメントだけして、(2)、(3)については帰宅してからゆっくりと思っていたんですけど、なんか「回答拒否」と受け取られてしまったようですね。いや、三つともお答えしますよ。でもこの三つ質問だったんですね。いや、気がつきませんでした。

>(2)技術開発者さんが「解析」と書いたことに対して、やすさんが、解析の資料を出せば役立つだろう、と主張した部分。 個別の事例を山ほど見て「どうやらこうらしい」という考えに至ったものについて、資料を出せ、とやったところで、それが誰かの役に立つとは思えないです。

えーと、まず全然理解できないのは、役に立つ、立たない以前に「資料はなかった」んですよね。だったら、技術開発者さんがすべきことは「資料はない」と言うことで、「資料を求めたことを非難する」ことではないですよね。私は別に「資料を作れ」とか、「資料を作るべきだ」とは言ってないんですけど。
 
>自然科学でも、解析の資料を出せ、とやることはあるが(私もやったことはあるが)、自分が相手と同等かそれ以上の知識なり理解力があることが前提です。そうでないと資料をもらったところで活用などできないし、検討も無理では。

この部分は完全に「ウソ」、あるいは「根拠のないいい加減な話」ですね。でなければ、世界一の知識なり理解力が有る人の作成した資料は誰にも活用されないということになる。

>しかし、やすさんは、資料があればそれで何とかなると考えているようです。なぜそういう発想をしているのかがわかりません。一体どういう経験からこのように考えるようになったのか、私には見当がつかないんです。

解析資料は「根拠」になるからですよ。「根拠」さえあれば、私の技術開発者さんのコメントに対する評価も変わってくる。だから、資料は重要なのです。ま、結局資料は「なかったわけですから」、「それで何とかなる」もなにもない訳ですけどね。

>(3)技術開発者さんが述べた「「どうやら言説を科学的なものと装うと無批判に受け入れてしまう傾向が社会にあるのではないか」にたどりついた訳です。」に対して、これまで、やすさんは、「違う」とも「合っている」とも、何の判定もしていません。その一方で、この結論が出てきた「解析」の部分にばかり、異常にこだわっています。やすさんの問題意識がどこにあるのかがさっぱりわからないんです。技術開発者さんがどういうプロセスでこの結論に至ろうが、やすさんなりの論拠をもって否定するなり賛成するなり改訂するなりすれば良いのに、こだわる場所が違うんじゃないかと。

技術開発者さんの意見に「賛成」するか、「反対」するか、は客観的根拠がなければ結論が出ません。「解析した」というからには客観的根拠を目にすることができる。そうすれば技術開発者さんの意見に「賛成」することができる。この期待があったから、資料についておききしたのですよ。

>技術開発者さんに質問ばっかりしていて、もともとの規範についての話題に対するやすさんの意見とかやすさんの判断が全く出てこないのはなぜか、引っ掛かっています。

社会規範をニセ科学を批判することの理由の中心におくことには反対ですよ。

>理解する能力が無いことを自覚もできない、と他の人が考えている場合には、議論するだけ無駄という結論が出ることがあるかもしれない。

別に議論してくれなくてもいいですよ。根拠さえ提示してくれればいいのです。

>なぜここで「一般の人」を持ち出すのか。「一般の人」に頼らず、やすさんがやすさんの言葉で、賛同を得にくい理由をなぜ説明しないのか。(空っぽその1)

「賛同を得にくい理由」は技術開発者さんのコメントの多くに「根拠がないから」ですよ。

>また、同様のたとえ話を別の場所でやっているのを見かけたことは多々あるが、たとえ話のせいでわかりにくいと言い出す人はほとんど見かけなかった。

かとうさん(Posted by かとう at Jun 18, 2009 10:04 AM)もわかりにくいと思っていますよ。

>上と同様。「人文・社会科学系の人たち」を持ち出さずに、なぜ、やすさんの「人文・社会学系の知識」
に基づき、技術開発者さんはここが慎重ではない、とはっきり論じないのか。(空っぽその2)

根拠なしに理論を展開するのは慎重ではないですね。

>正確にいうなら、法社会学か法哲学の人の手助けがほしい、と言ったのは私であって、技術開発者さんは人文・社会学系の人達の協力が欲しいといったことを言ってはいないのでは。

私が応援しているのはapjさんであって、技術開発者さんではありませんから。

>この発言がものすごく謎です。やすさんの主張と技術開発者さんの主張って、違ってたんですか?

社会規範を利用するかどうかでは意見が違うでしょうね。

>で、私は技術開発者さんのいわんとするところが大体わかるわけですから、やすさんと私の読解力には「ギャップ」があるわけです。ギャップがあること=不足があること、ではないです、念のため。

ふーん。じゃあ私は「読解力は不足していない」のですか。じゃあ、十分読解力が有る人でも「技術開発者さんのいわんとするところ」はわからないことがあると言うことですね。で、apjさんは、私は理解力が不足していると何回も指摘されていますけど、この文脈での読解力と理解力の違いって、何ですか?

>ところが、あなたは、自分の読解力は不足していないと言い張り、技術開発者さんの作文能力ばっかりあげつらっているわけです。つまり、ご自分の主張あり方がそのままご自分に返る形になっています。

ん?私には読解力が不足しているのですか、不足していないのですか?

>また、「ニセ科学批判」と括れるようなものは存在しないということを既に議論して示していますので、『「ニセ科学批判」はダブルスタンダードだ』というのは何の意味もない言明ですね。

「意味論的」には意味がないのかもしれませんが、「語用論」的には意味があると言うことですね。

>ここも含めて、やり取りが公開される場所では、誰かにコメントするという形をとりつつ、ギャラリーにもコメントのあり方を見せるということは普通に行われています。

でも、当該コメントが私個人に宛てられた、という事実は変わりませんよね。ただそれが公開されただけのことです。

>私には、やすさんが何か被害妄想を抱いているようにしか見えません。

「アホらしい」「お子様」「科学に毒されている」「空っぽ」などと言われ続けたら、被害妄想を抱くような人がいてもしょうがないですよねえ。

以下、技術開発者さんの元々のコメントと、apjさんの解釈を比較検討します。

「弱い強制力ということ」
こんにちは、やすさん。
古い落語などには「せんみつの与太郎」とか出てきますよね。
八:「おい、今度のお祭りに、うちの御輿は出ないって話だが、とうしたんだい」
熊:「何言ってやがる。おれたちが昨日すす払いしたばかりだ、出ないわけがあるまい。誰に
聞いたんでぃ。」
八:「与太郎が、『壊れているから今年は出ない』と言って歩いたのを小耳にはさんだのよ」
熊:「馬鹿だなぁ、おめぇもよ。与太郎といやぁ、せんみつじゃないか」
八:「なんだい、そのせんみつというのは」
熊:「千のうち3つくらいしか本当の事がないからせんみつよ。どうせあの馬鹿野郎、昨日の
すす払いで飾りが取れて騒きになったのを大げさに言いふらして居るんだろうよ。おめぇも、
与太郎の話なんか真に受けて言いふらして歩いたら、せんみつと言われるぜ」
八:「すまねぇ、兄貴。まだこの長屋に越してきて間がないものだから、せんみつの見分けが
つかねぇんだ」
なんてのが「せんみつの与太郎」の周りで交わされる会話である訳です。ここで理解して欲し
いのは、落語の世界では「せんみつの与太郎」は少し足りないおっちょこちょいとして描かれ
る事が多い訳で、同時に与太郎は皆に叱られたり馬鹿にされたりしますが、実のところ周りは
諦めている面があります。「与太郎だからしかたない」みたいにね。でも与太郎の話を真に受
けて言いふらして歩きそうな八を熊は止めていますよね。このように止める事の根底に、与太
郎が「叱られたり馬鹿にされたりする人物」として描かれ、越してきて間がない八が与太郎の
同類として長屋の皆から「叱られたり馬鹿にされたりする人物」となることを防ごうとしてい
る面があるということです。


>これに対して、技術開発者さんが、「せんみつの与太郎」の例を出したわけです。デタラメを言うのは良くないことだ、という規範を維持したことによって、話を受け取る側が怪しい話を割り引いて聞くことで被害発生を減らす、怪しい話をそれ以上広めないようにする、といったことが可能になります。さらに大した被害が発生しなければ、与太郎もそんなに厳しく責められなくても済みます。規範の機能は、単に違反者にペナルティを与えるためにあるというのではなく、そのあり方は多様であり、規範を維持しておいた方が良いだろう、という説明であると私は読みました。

>デタラメを言うのは良くないことだ、という規範を維持したことによって、

「デタラメを言うのは良くないことだ」という命題は、元の話には全然出てきませんねえ。社会規範も、規範と言う言葉すらでてきません。

>さらに大した被害が発生しなければ、与太郎もそんなに厳しく責められなくても済みます。

これも元の話には出てきませんね。

>規範の機能は、単に違反者にペナルティを与えるためにあるというのではなく、そのあり方は多様であり、規範を維持しておいた方が良いだろう

規範の機能の話なんか、どこにもないですよ。熊は八に、「ウソをいうな、なぜなら、せんみつと言われてしまうからだ。」といっているだけで、ウソをいうことを「いいこと」とも『悪いこと」とも言っていません。いったいどこに「デタラメを言うのは良くないことだ」と書いてあるのですか。apjさんの解釈はねつ造ですね。

>「役に立つかどうかは別」だけど「検討する価値」がある、という主張が意味不明です。
 せめて、「役に立つかもしれない」という期待くらいは最初にないと、検討する価値があるとは私には思えないんですよ。

あのう、私は最初から、役に立つと思っているんですけど。「役に立たない」と主張したのはapjさんで、「役に立つかどうかは別」はそれを受けての発言なんですけれどねえ。

>元の資料から誰かの思考を追うというのはそれなりに時間も労力もかかる上、できる人が限られます。この発言をなさった時、やすさんの設定では、一体誰がその*面倒な*検討をすることになっていたのでしょうか。役にも立ちそうにないことを検討する酔狂な人が一体どこに居るんでしょう。
 「役に立つかどうかはわからないけど、膨大な資料であったとしてもぜひ手間暇かけて公開してくださいね、技術開発者さん。そうしたら、最終的に役立つかどうかはともかく、労力と時間を投入してちゃんと検討しますよね、他の皆さん。まあ、そこまで手間と時間をかけても、資料は役に立たないかも知れませんけど、検討する価値はあるでしょうね」ってことですか。何だか、やる気があっても無くなりそうですけど。

あのう、資料は結局「なかった」んですよね。「存在しない資料」について、どうしてこんなに熱く語れるのか不思議でしょうがありません。存在しないものに対して何を言っても空理空論以上にはなりませんので。

>・他人には質問して説明を求める(例:技術開発者さんにあれこれ訊いていた)
・他人からの質問には答えない(例:現在回答待ちの私の質問がある状態)

あの、回答待ちの状態でも、ダブルスタンダードですか。ちょっと厳しすぎるような。そもそもあれは質問だったのかなあ。でもこれで回答したからには、ダブルスタンダードは免れました。ではapjさん。私はあなたの質問にすべて答えましたが、あなたは答えてない質問がまだまだありますよね。ということは、

・他人には質問して説明を求める(例:やすにあれこれ訊いていた)
・他人からの質問には答えない(例:現在回答待ちのやすの質問がある状態)

となってしまいますので、ぜひお答えください。

>「技術開発者さんは意味不明で曖昧なたとえ話を多用するような表現を好む人で、おそらくそういう表現を導き出すような思考パターンの持ち主である」ということになります。
さて、このような「ワケわかんない説明ばっかりしたがる思考回路の持ち主」が、解析の結果云々 ……、と発言したんですね。

んー。「たとえ話を多用するような表現を好む人」というのはあってますね。でも私は技術開発者さんのことを「ワケわかんない説明ばっかりしたがる思考回路の持ち主」と思っているでしょうか。それこそでっち上げではないでしょうか。
ムペンバ効果の話題のときに技術開発者さんがコメントしてくれていますが、私はきちんと私なりに理解し、お礼を述べています。技術開発者さんに批判的にコメントしたときも、「もちろん技術開発者さんの議論の進め方のすべてが悪いということではなく、非常に有益で論理的なコメントも多々あります。」という風に肯定的な評価もしています。つまり、悪いのは表現形式にこだわるからであり、思考能力ではない、といいたいのです。私が技術開発者さんのコメントが理解できないのは、根拠がかけているからであり、根拠である資料があれば理解することができる、と考えるのは、そんなに不自然でしょうか。

あとapjさん。あなたは私が技術開発者さんに肯定的に評価しているのを知りながら、まるっきり無視しましたね。まあ、裁判なんかではこういうのは常套手段なのかもしれないけれども、私が論文の作成の指導を受けたときには、「自己の主張に都合の悪い事実に言及しないことは倫理的によくない」と教わったんですよね。これって自然科学では通用しないんですかね。

必要なのは時間と経験ではないでしょうか

Posted by apj at Jul 07, 2009 10:57 PM
やすさん、
 お返事いただけたので、上のダブルスタンダードの部分は撤回致します。

>えーと、まず全然理解できないのは、役に立つ、立たない以前に「資料はなかった」んですよね。

 これなんですが、技術開発者さんは、資料はある、と書いておられますよね。なぜ、それを認めないのかがわからないんですが。やすさんの期待するようなものでなかったというだけじゃないんですか。

>この部分は完全に「ウソ」、あるいは「根拠のないいい加減な話」ですね。でなければ、世界一の知識なり理解力が有る人の作成した資料は誰にも活用されないということになる。

 多分、トップレベルの人同志なら説明されれば理解可能だったり、でもそれが広く理解されるには、全体の知識が上がるまでのタイムラグがあったり、というのはどんな分野でも普通にあることでしょう。根拠の有無以前に、現実はそうなってるんじゃないですか。

>解析資料は「根拠」になるからですよ。「根拠」さえあれば、私の技術開発者さんのコメントに対する評価も変わってくる。だから、資料は重要なのです。ま、結局資料は「なかったわけですから」、「それで何とかなる」もなにもない訳ですけどね。

 違います。

技術開発者さん:「やすさんの思っている意味での解析資料はないかも知れませんね。」「それこそ3年に渉っていろんな人といろんなニセ科学について膨大な議論をした訳です。それを全て示せと言うのなら、そんな手間のかかることはお断りです。」
やすさん:資料は無かった。
私:私の方も技術開発者さんと似たような状況。で、技術開発者さんとやすさんの組みあわせじゃ、技術開発者さんが仮に資料を出したってやすさんが理解して使えるようなものではないんじゃないの?

という状態です。だから、資料が無い、と言い張るのは自由ですが、それは、やすさんが期待するようなものではない、というだけでしょう。

 以下、やすさんの「読解力」の程度をご自分で示しておられます。

>「デタラメを言うのは良くないことだ」という命題は、元の話には全然出てきませんねえ。社会規範も、規範と言う言葉すらでてきません。

>規範の機能の話なんか、どこにもないですよ。熊は八に、「ウソをいうな、なぜなら、せんみつと言われてしまうからだ。」といっているだけで、ウソをいうことを「いいこと」とも『悪いこと」とも言っていません。いったいどこに「デタラメを言うのは良くないことだ」と書いてあるのですか。apjさんの解釈はねつ造ですね。

 解釈が捏造、の意味が不明です。そう主張するのはかまいませんが、私には、「やすさんが決定的に読解力不足」であることの証拠にしか見えません。文章をそのように読むのはやすさんの勝手ですが、他人が読めるように自分が読めないから他人の解釈を捏造と主張する、のでは、「お子様」と言われても仕方無いと思います。

 ところで、小学校の頃に国語の授業でやりませんでしたか?直接のキーワードが無い(少々わかりにくい)状態で、文脈から「筆者は何をいいたかったのか?」といったことを考えるのを。小学生なので時間はかかりますが、グループ討論などをして段々絞り込んでいく、なんてことをやってましたけど、そういうのを思い出していただければ、私がやったような読み方は別に変わったことじゃないと思うんですが。

>「役に立たない」と主張したのはapjさんで、「役に立つかどうかは別」はそれを受けての発言なんですけれどねえ。

 で、役立てるつもりがあったのはやすさんご本人、ということですね(これで(2)の確認終了)。

>あのう、資料は結局「なかった」んですよね。「存在しない資料」について、どうしてこんなに熱く語れるのか不思議でしょうがありません。存在しないものに対して何を言っても空理空論以上にはなりませんので。

 いいえ、技術開発者さんは、「やすさんの思っている意味での」資料はない、と言っているだけですから、空理空論ではありません。

>あなたは答えてない質問がまだまだありますよね。

 すいません、どれでしたっけ?私がやったように、簡単に箇条書きお願いできますか?

>私が技術開発者さんのコメントが理解できないのは、根拠がかけているからであり、根拠である資料があれば理解することができる、と考えるのは、そんなに不自然でしょうか。

 やすさんから技術開発者さんへの質問の内容を考慮に入れた場合、相当に不自然です。

 やすさんは「私が技術開発者さんのコメントが理解できないのは、根拠がかけているから」とお考えのようですが、私はそのように考えていません。私は、「やすさんが技術開発者さんのコメントを理解できないのは、やすさんに、やすさん自身がお持ちの規範にいてのとらえ方が弱かったり、規範を支えるだけの経験が欠けているから」と考えています。こういう場合には、根拠である資料を見たって、技術開発者さんが結論を出した理由を理解するのは不可能だと思います。やすさんには、多分、もう少し時間が必要なのだろうと思っています。それは、やすさんご自身の経験と思索によって、やすさんの内部に規範についての判断基準を確立するための時間です。

 もし、やすさんが、技術開発者さんのたとえ話や落語の話から、規範の話を読み取ってやすさん独自の規範論を展開して技術開発者さんにぶつける、といったことをしておられたのであれば、私もこんなことは書きません。

 それと、今回の書き込みを読んで、やすさんは、理解できることの限界をどこまで意識して質問やコメントをなさっているのかな、と思いました。説明されれば何でもわかる、と楽観的に考えているのかな、とも。でも、資料を読めばわかる、なんていうのは間違っています。
 私は、技術開発者さんが「ものつくり屋」さんという名前で悪徳商法被害対策の掲示板レス屋をしていた頃から、書かれたものを読んでいます。その時は、私の方は法律の知識が(今よりはかなり)乏しいまま、消費者保護関係の法律の条文や立法趣旨を読んでいたのですが、全く同じものを読んでも、当時の「ものつくり屋」さんと私が得られる情報はまるで違ってました(当然、「ものつくり屋」さんの方が多くのことを読み取っていた)。これは、予備知識と経験の差によるものです。その後、数年かけて私も法律の勉強を折に触れて続け、少しは注意して読むようになり、「ものつくり屋」さんが書いていることの意味がわかるようになりました。また、私が読み取ったのと大体同じ内容を書いておられる、と思うようにもなりました。
 公開されている全く同じ内容の資料を読んだって、そこから何をどれだけ読み取れるかは、読み取る側の知識とスキルで決まってしまいます。これは、否定しようのない現実です。

 やすさんご自身が内部に、技術開発者さんの発言に対する価値判断の基準を持っておられるかどうかを確認したくて、(3)の質問をしたのですが、お答えの内容からは、今現在、判断の基準はやすさんご自身の中には無いだろうという結論に至りました。
 やすさんご自身の基準があれば、それに照らして技術開発者さんの結論の「ずれ」を捉えることができ、そうすればその「ずれ」について外に問いを発することが可能となりますので。


>あとapjさん。あなたは私が技術開発者さんに肯定的に評価しているのを知りながら、まるっきり無視しましたね。

 それは、ムペンバ効果の時の話であって、規範の話になってからのあなたの質問の内容からは、単純に、技術開発者さんの書いた内容をフォローできていない、という状況しか読み取れませんでした。
 ですから、肯定とか否定とか以前の問題だろうと認識しています。規範関係の話題では、とにかく今は、技術開発者さんはやすさんの理解可能な範囲の外側に居るのだろう、と。

>私が論文の作成の指導を受けたときには、「自己の主張に都合の悪い事実に言及しないことは倫理的によくない」と教わったんですよね。これって自然科学では通用しないんですかね。

 意味不明です。
 別に、私は、「やすさんが技術開発者さんを否定的に評価している」という結論を出そうとしたわけではありませんので。「やすさんには技術開発者さんの考えを理解するのは今は無理だろう」とは思ったので、そのように書き、さらに確認するための質問はしました。これは、やすさんが技術開発者さんの規範についての発言を否定あるいは肯定することを意味しません。否定するにせよ肯定するにせよ、理解できなければどっちも無理ですので。

ニセ科学批判とオープンソースとコスト論

Posted by Seagul-X at Sep 23, 2009 04:21 PM
オープンソースのたとえを引用してもらったので、ついでに少し前から考えていることをちょっと書かせてもらいます。あんまりまとまっていませんが。

なにかというと、誰がコストを支払うのかという話です。
基本的にオープンソースとおなじで、やりたいひとがそのやりたい活動分のコストを費やす、ということなんだと思うんです。ニセ科学批判が仕事だってひとはいまのところいないわけだし。
ニセ科学フォーラムを開いたり、NHK で話をするとか、apj さんだと間違っていることを示す実験をしたり、裁判で争ったり。そこまでいかなくても、正しい、あるいは間違っていることを示すことのできる文献を探したり、原典に当たって何がおかしいのかを解析したり。

で、オープンソースの方の話なんですが、このあいだオープンソースのフリーライダー論を見つけて、なんとなくニセ科学批判・ニセ科学批判批判にも当てはまるなぁ、と思ったので紹介します。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/[…]/

ニセ科学批判が間違っていると主張するのはいいけど、少なくともコストを支払って活動しているひとたちの方向を変えさせようとするなら、説得する・できるだけのコストを支払うのは間違っていると主張するひとたちの方だって思います。それをニセ科学批判をやっているひとたちに転嫁するのはよくない。
私自身はというと、自分で考えてもそれほどコストを支払っているとは思えない、つまりフリーライダーかそれに近い存在だと思っていて、だからせめてコストを支払って活動しているひとたちを徒に消耗させるようなことは避けようと思っています。

とりあえず、考えがまとまっているのはこの辺まで。たぶん突っ込みどころもたくさんあるとは思います。

バランスが悪いんですよねぇ

Posted by apj at Oct 06, 2009 01:52 PM
Seagul-Xさん、

>ニセ科学批判が間違っていると主張するのはいいけど、少なくともコストを支払って活動しているひとたちの方向を変えさせようとするなら

 それだけじゃないアンバランスさを感じたから、「いわゆる「ニセ科学批判批判」「批判の仕方批判」は、ニセ科学に対するクレームの対抗言論にはなれない」と書いたんですよね。
 ニセ科学の方は、多くの場合、経済的にも計測可能な実害をもたらすので、コストを払ってでも問題にすることに意味があります。一方、批判の仕方批判の方は、コストを払ってまで対応しなければならない実害が存在しないでしょう。逆に、批判の仕方批判が、ニセ科学で誰かに経済的損失をもたらしたい人に利用されて、被害発生を助長することはあるかもしれませんけど。

我がマンション管理組合がニセ科学の被害者になってしまったようです・・・。

Posted by ichigo at Apr 25, 2010 05:19 PM
突然の書き込みをお許し下さい。
貴HP(水商売ウオッチング)は、自分が管理組合の理事長になった時「MNRパイ○テ○ター」(ご迷惑がかかってはいけないので一部伏字です)について調べている中知りました。(知った当時はアドレスも今と違う所だったと思います。)自分自身は文系(法学部)出身者なので科学にはとんと疎く、一見上記商品の案内パンフレットは正しいように見えつつも(理由無き)直感で胡散臭さを感じ、貴ページにて自分の直感の方が科学的にも真実に近いのかな?と、自分が理事長の時は販売営業にもめげず導入回避をしました。しかし……理事長&理事役員は一年任期の持ち回りである為、他の人が理事長&理事になった今年上記商品導入の発議がかけられ、導入案が可決されてしまいました。残念で残念で本当に残念でなりません。

私個人の判断で可否を決められるものなら、今回のような「怪しい装置」は購入しないのですが、マンション管理組合のように多数の人の意見を集約し多数決でもって決定する場合には、ニセ科学に敏感な人がニセ科学に騙されやすい人より多くならないと、我がマンション管理組合のように簡単に被害者になってしまいます。

Y.AMOさんも訴訟に巻き込まれたりでご苦労お察し申し上げます。しかし今でもこうしてネット上に記事を残してくださっているのは、科学者としての良心を強くお持ちで、ニセ科学から科学の素人を守ろうというお気持ちなのではないかと存じます。そのお心に深く感謝すると共にお願いがあります。科学の素人(一般人)は、貴HPの記述でもまだまだ難しく感じられます。Y.AMOさんの許す限りで構わないので、もっともっと簡単な記述で『ニセ科学』について科学の素人に向けて注意喚起をしていただけたら幸いです。

突然の書き込みで失礼かとは存じましたが、ネット上の彼方に、私のように貴HPが助けになった者が居ることをお伝えしたく、コメントさせていただきました。

お疲れ様でした

Posted by apj at May 18, 2010 08:30 PM
ichigo様

 多数決で決まる場合は、騙される人の数の方が多かった場合は通っちゃいますから難しい所です。
一つの方法としては、将来、被害が発生した場合の損害賠償を、賛成した人に負わせるといった形での解決しかなさそうに思います。
1件でもいいので、活水器導入→効果無し→必要な対処を遅らせたという理由で業者と賛成した人に連帯して責任を負わせる、といった訴訟で、賛成した人に対する賠償が認められるケースが出てくれば、安易にインチキを信じる人も減るのではないかと思います。

 水商売ウォッチングのページは、もともと私の恩師の勤務先であるお茶の水大に置いていたのですが、恩師の定年退職に伴い、私の勤務先に移しました。いずれ、このページと統合するつもりですが、前期は特に多忙で、作業が滞っています。書かなければならない材料もありますので、夏頃にはどうにかしたいと考えています。

 変な案件への対応、本当にお疲れ様でした。

« 2012年 5月 »
5月
12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031
ログイン


パスワードを忘れた?
 
 なお、文部科学省や国大協にまでクレームを送りつけ、事務に電話をかけまくるという迷惑極まりないことをやってくれた(自称)某探偵事務所のようなケースが出てきました。こいつは、電話で「私の自宅に行くぞ」と言い、「来たら警察に連絡する」と 言ったら「警察に連絡する余裕があればいいけどな」という捨てぜりふを言いました。この人物は、不倫復讐代行殺人請負詐欺の犯人として既に逮捕されました。
 今後、当サイトに対するクレームは、どこのお役所経由であろうと、いかなる形で届いたものでも手段を選ばず全力をあげて公開いたしますのでご承知置きください。